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番町句会(4/14) [俳句]

締切時間を15分超過して会場に到着(移動中に遅参を連絡し、特段の思し召しで待っていただいている)し、会衆のみなさまが既に投句を終えて見守る中、兼題「春の蠅」に脊髄反射で必死に対応。将棋早指し選手権のようだ。

20170414.JPG

(選句用紙から)

遠くあり近くありして春の雲

これ、私なら「遠くなり近くなりして」とやってしまうことが確実。「遠くあり近くあり」って、一見何でもないようだけど、なかなかできない、すばらしい表現。雲が(または自分が)動いているのでなく、遠くにも近くにも雲があります、と言っているわけだ。比較的ゆっくり動いているか、ほぼ静止しているのだろう。このたゆたう感じが、まさに春の雲なのですね。もっとも、「凍雲」なんていう季題もあって、冬の雲もじっと動かないことがあるにはあるけれど。

どの川も富士の雪解や音高き

季題「雪解け」で春(早春)。富士の山麓では、4月でも雪解水がごうごうと流れているのだろう。どの川「も」ということは、大河に沿ってではなくて、小さな流れをいくつも越えて、等高線に沿うようにして裾野を歩いているのだろうか。


(句帳から)

ガラス戸の内側にゐる春の蠅
制服に手が生え足が生え四月
小径を麓へたどり春深し

冬はどこへ行った? [俳句]

光が丘のIMAホールへ行く道すがら、地図を眺めていてふと気付いた。

光が丘地区に「春の風小学校」「夏の雲小学校」「秋の陽小学校」という名前の小学校があるのだけど、なぜか「冬の○小学校」だけがないのだ。その代わり?なのか「四季の香小学校」というのがある。

hikarigaoka_map.png

なんだこれは。
春、夏、秋ときたら当然冬じゃないのか。
練馬区教育委員会が、冬は小学生にふさわしくないと考えたのだろうか…電話して聞いてみようか…

と思いながらもう少し地図を眺めていると、それぞれの小学校と同じ名前の公園が近くにあるので、どうやら、「地名がそうなっているので、それに合わせて小学校の名前もつけちゃった」みたいだ。
(ちなみに、練馬区のウェブサイトを見てみたら、この4校はもともと8校あった小学校を統合再編して2010年に開校した模様で、それまでは単に「第1小学校」から「第8小学校」だったらしい)

そうすると、この疑問を解くには、光が丘地区が米軍から返還された当時、どうしてこの(冬のない)地名を創設したのかを調べないといけないのだけど、ちょっと難しそう。練馬区の図書館とかにいけば調べられるのかな。

この気持ち悪さを掘り下げて考えると、原因は二つあって、
 ・冬がないことの気持ち悪さ(冬が排除されているように見えることへの腹立たしさ)
 ・春・夏・秋・四季という並びの気持ち悪さ(MBA風にいえば、MECEでないことの気持ち悪さ)
ではないかと。

余談だが、冬にちなんだ小学校の名前を考えるとしたら何がいいか。ここは俳人の腕の見せ所なのだけど
 ・冬の星小学校
 ・冬の晴小学校
 ・冬の森小学校
なんかどうでしょう。

 

第107回深夜句会(4/13) [俳句]

初めて参加される若い男性が、「この句会が生まれて初めて参加する句会」だとおっしゃるので、会衆一同大歓迎。自分の「はじめての句会」っていつだったのだろう。1980年の秋から冬にかけてのどこかだと思うのだけど、記録もないし、もう全然覚えていない。こんなに長く俳句を続けるとは思ってもみなかった。

(選句用紙から)

桃色の少し差したる桃の花

うぐいすを見て「うぐいす餅の色だね」と言うジョーク(?)があるけど、桃の花―ここでは白い花なんだろう―をよく見ると、そこにうっすらと桃色が差している。ここでは虚子の「白牡丹といふといえども紅ほのか」が連想されるが、白い花といってもかすかに赤みがかっていて、その赤の色が他ならぬ桃色だ、というのは、眼前の事実であるので、言葉遊びのみに陥ることをまぬかれている。

焦げ目よし花の餃子と云うべしや

季題「花」で春…ということになろう。花の宴とか花見酒とはいうが、花の餃子って何なのということだが、花見に誰かが持ってきた焼き餃子の焦げ目を見て、参加者がたわむれに「これぞ花の餃子だ」などと言い合っているのだろう。「焦げ目よし」の藪から棒加減も、たわむれにそう言っていることを示しているのだろう。「云うべしや」の「べし」は適当(そのように言いなすのがよい)の「べし」であろうか。

(句帳から)

春の星いただいてをる山地かな
ゆでこぼしながら低唱春深し




増田俊也『七帝柔道記』(角川文庫、2016)【ネタバレ注意】 [本と雑誌]

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「初めての作家」3連発の最後に、すごい作品に出合ってしまった。早くもことしのベスト1確定かもしれない。ページをめくりながら、終わりに近づくのがもったいない思いをするのは久しぶり。

舞台は札幌、時代は昭和の終わりごろなのだけど、こういう世界が実在したのですね。"想像を絶する"という陳腐な表現しか思い浮かばないぐらいすごいことが、ふつうのキャンパスライフ(死語?)を送る一般学生のすぐ隣で行われていることに、まず驚く(体育会の他の部との比較も描かれているので、体育会だからということではないでしょう)。柔道部員の一人ひとりのキャラクターも、ていねいに描かれていて楽しめる。

かといって、選び抜かれた人々が世間から隔絶された高みですごいことをやっている、という描かれ方ではなく、ときどき出てくるふつうの学生やふつうの市民(これがまた魅力的)とのやりとりに、何ともいえない味わいがある。

また、小説としてすごいところは、凡百の青春小説にありがちな、そこそこのハッピーエンドをまったく用意していないところ。むしろ、どん底ともいえる状態で終わっている。それにしても、こういう終わり方ってありなんだろうか。未回収の登場人物や挿話がいくつかあるし…と思いながら解説を読むと、一応続編があるのですね。これは一刻も早く読みたい。

小説といっても作者の実体験を描いているので、エピソードの積み重ねに不自然さがなく、とても受け入れやすい。こうした場合、むしろ無数のエピソードのどれを採り、どれを採らないか迷うと思うのだけど、よく考えて選ばれているようで、「あるべきエピソードが、あるべき場所にある」感じがする。作者自身の経験が作品化されたという成り立ちは藤谷治さんの『船に乗れ!』とも共通しており、描かれている世界は全然違っても、特異な求心力という点では同じ印象を受ける。

 



第106回深夜句会(3/23) [俳句]

(選句用紙から)

瀬の中の小さき淵や春の水

まだ上流の、歩いたり走ったりしている川なのだろうが、そのたぎる瀬のなかの、ある一部分が、そこだけ傾斜が緩いのか、水が比較的静かでなめらかに移ろっている。それを「瀬のなかの淵」と切り取ってきたところにこの句の眼目がある。またその「小さき淵」に移ろっている水の色や、映り込んでいる空の色なども想像されて、率直にいい句だなあと思う。


夜を徹して読了したる辛夷かな

季題「辛夷」で春。手紙とか訴状だと、さすがに夜を徹して読むほど長くはないだろうから、まあ小説であろうか。明日の用事に差し支えるから途中でやめて寝なくちゃと思いながら、とうとう朝までかかって全部読んでしまった。そこで寝床にもぐりこむのか、それとも支度して出かけるのかわからないが、そうしている視線の先に、ふと辛夷の白い花がちらちらしているのが見えた。朝の光を受けて白く揺れている辛夷の花が、さきほどまで夜を徹して読んでいたものの内容との差において、視覚的にそうである以上に心理的にまぶしく感じられた。
「読了したる」の後で切れるのだけど、下五が「かな」で終わっているので、やや落ち着かない。他にうまい言い方があるのかもしれない。


(句帳から)

うららかや電車並走してゐたる
入園式のご案内貼り冷蔵庫
シースルーエレベーターの日永かな

 

生への列車・キンダートランスポート(『世界』2017年3月号) [本と雑誌]

細野祐二さんの「東芝・債務超過の悪夢」を読もうと思って買ったのだけど(いゃ、そっちも面白い内容だったのだけど、「正味運転資本調整」のところがよくわからない(財務諸表論では出てこなかったのだけど、最近のルールなのか、それとも会計士さんしか知らないルールなのかな?)ので、ちょっと引っかかる)、戦前戦中のドイツでこんなことが行われていたとは知りませんでした。あの時代状況で、危険を顧みずというべきか、すさまじい行動力というか、頭が下がるとしかいいようがない。

クエーカーの人々のプレゼンスというのは、イギリスやアメリカではむろんのこと、大陸においても、これほどに大きなものなのですね。

番町句会(3/10) [俳句]

きょうのお題は「苗木市」。
これが難しいのは、あまり実景に接したことがないから。

(選句用紙から)

灯籠に寄りかからせて苗木市

季題「苗木市」で春。寺社の門前とか境内なので、手ごろな場所に「灯篭」があるわけだが、その灯篭に寄りかからせるようにして、すこし背の高い苗木が売られている。根元が鉢でなく、丸くつつまれていて、また、そこそこ背が高い苗木であるから「寄りかからせる」ことになるわけで、そんな無造作に置かれている苗木の様子がわかる。

乗り継ぎを待つ空港の日永かな

季題「日永」で春。乗り継ぎ便を待つ間、小さな空港だと何もすることがない。海外での乗り継ぎなんかだと、ことばもわからないし時間つぶしのネタもないしでいっそう手持ちぶさたになる。ガラス張りの向こうには、空港のさまざまな車両や施設が見えるが、それらにも春の日が当たっている。日ごろあわただしい人ほど、乗り継ぎの手持ちぶさた感が強いのではないかと思うが、それに「日永」という季題がよく調和している。

飯場にもクロネコの来て日永かな

PCな日本語だと「作業員宿舎」になるのだろうか。そこへ宅急便のトラックがやってきて、また去っていった。ただそれだけなのだけど、「住宅」でも「商店」でも「会社」でもない寄宿舎のような場所に、宅急便のトラックがやってきて生活上必要なものを置いて帰っていく、という発見(発見とまでいえないかもしれないが)がこの句の眼目。ただ、「も」が散文的で、他の言い方がなかったか検討の余地がありそうな。


(句帳から)

駅までのシャッター通り苗木売る
月朧イギリス大使館の庭
春宵や角のビストロまず灯り
→まづ灯り

  

丸山正樹『デフ・ヴォイス 法廷の手話通訳士』(文春文庫、2016) [本と雑誌]

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「初めての作家」をもう一冊。
何でも置いてあるような超大型店はともかく、理屈からいえばすべての本屋さんはセレクトショップなのだけど、その中でも特に、狭いお店に店主が選り抜いた本を並べているような、セレクトショップ型の本屋さんで求めた一冊だが、読みごたえのある内容。

一応ミステリーの体裁をとっているけれども(実際、ミステリーとしてもよくできた作品だと思うけれども)、ろう者やその家族のおかれた現実を理解するにはよい入門書でもある(「日本手話」と「日本語対応手話」の違いなど、本書で初めて知った事実も多い)。問題の所在が整理でき、それぞれの人々の立ち位置もよくわかるのですね。そして、主人公のような属性をもつ人が、「自分は何者なのか」と自問し、「敵か味方かとかどちら側とか、そもそもそういうことではない」という結論に至る過程もよくわかる。
特に、この主人公(と同じ属性をもつ人)でなければわからないことがら、とりえない行動などが描かれ、それが本書を説得的なものにしている。

そのため読後感は、根本的な問題が解決していない点では重く、しかし登場人物のそれぞれが階段を一段のぼって次のフェイズに進んだ点では日差しが差し込んでいるような明るさを備えており、作品全体の厚みともいえる余韻を醸し出している。


第105回深夜句会(2/23) [俳句]

(選句用紙から)

月朧マクドナルドのMが見え

季題「朧(月)」で春。ここでマクドナルドのMとは、都心のビルの中でなく、郊外のロードサイドなんかにある店舗で、車から見えるようにポールの上に掲げられているのではないかと。
で、あのMの文字は黄色で描かれているのだけど、その背後にある春の夜空には、やはり朦朧と春の月がかかっている。

電子レンジのともるも春の灯なる

電子レンジが回っているときに中を照らす電球は、むろん一年中同じように動作しているのだけど、いささか頼りないこの電球も、街灯や家のあかりと同様、また春灯であるなぁと感じられた。秋とか冬(寒灯)だと電子レンジの灯りには結びつきにくいので、季題の選択はこれでいいのだと思う。


(句帳から)

逃げ遅れて死ぬる話や山焼く火

柚木麻子『本屋さんのダイアナ』(2016、新潮社) [本と雑誌]

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解説で紹介されていた有名な少女小説との対比を意識して読むのが本筋なのかもしれないが、そういう本歌取り的な楽しみ方に限定しなくても、完全に独立した作品として十分楽しめる(むろん解説にも、そのように書いてあるが)。

ひとつは、この物語を成り立たせている重要なポイントである「見かけ上同じことがらについて、AさんとBさんの受け止め方が正反対」という現象について、読者に違和感なく了解させる筆力が、エンターテインメントとして十分楽しめる点(この点に関して付言すれば、描写がとても映像的で、ストーリーに直接関係ない細部まで描きこまれていて、ちょっとテレビドラマを思わせる)。

もうひとつは、登場人物が年齢ととともにどんな本(実在の本と物語中の架空の本が登場するが、ここでは実在の本)を読んでいるかが示され、それが登場人物を修飾する記号として有効に機能している点。また、この点に関連して、主要な登場人物の全員が、本や図書館、本屋さんを愛している点。

この作家を読むのはこれが初めてなのだけど(書店の店頭で『早稲女、女、男』と迷ってこちらを選んだのだけど)、なかなか面白かったので他の作品を読んでみたい。

夏潮新年会(2/19) [俳句]

ことしの選句用紙は79枚。
全部回すのも大変だけど、しかし今日は、すっと乗れる句が多くて楽しい句会だった。

(選句用紙から)

浅春の水の面のちぢみ皺

季題「春浅し」で早春。海なのか川なのか湖なのか池なのかは詠われていないのだけど、水面のわずかなさざ波について「ちぢみ皺」と叙したところが眼目。この句は違うと思うのだけれど、よく晴れた日に飛行機から瀬戸内海の海面なんかを見ていると、本当にこの感じはよくわかる。じゃあなんで「浅春」なの、という疑問が当然に浮かぶところで、むしろ早春は春一番とか東風が吹きまくったりして、波高しな日も多いと思うのだけど、日によっては、それまでの冬と違った穏やかな日があって、そんな日にはようやく春が来たと思うこともまた事実で、そんな日に詠まれた句なのではないかと。

温む濠船河原町遠からず

これはちょっと事情を知らないと選べないのだけど、『夏潮』誌の役割のひとつが虚子研究であるとすれば、かつて虚子が『ホトトギス』発行所をおいていた(丸ビルに移る前の発行所)は市谷船河原町つまりお濠の北側にあって、この句会場のちょうどトイ面ですね、というのがあって、堀端の風景が昔と変わらないのであれば、虚子もこんな風景の中を行き来していたのだろうか、ということまで思い浮かぶところ。ちなみに市谷船河原町はいまでも住居表示になっていないので、そのままの地名が使われている。

戦没馬慰霊塔みかんを一つ

季題「みかん」で冬。靖国神社にそういう慰霊塔があるのでしょう。中七と下五がわたっているが、それほど妙な感じはしない。みかん「が」一つじゃなくて、みかん「を」一つ、というところに、理不尽な死をとげた馬匹への愛情が感じられて、しかし過度にベタベタしていなくて、よいですね。

(句帳から)

浅き春飛行機雲のとぎれとぎれ
黒髪に茶色の髪に春日さす
濠端のわずかな斜面下萌ゆる
花ミモザから灯台へつづく道
雨樋のあのあたりから囀れる

番町句会(1/13) [俳句]

きょうの席題は「水仙」と「双六」。

(選句用紙から)

カーテンに影のよぎりて初烏

季題「初烏」で新年。「影のよぎりて」がなんとなく落ち着かない。「影のよぎれる」か「影がよぎりて」か。影「が」はちょっと無理っぽいので、やはり「影のよぎれる」でしょう。
元日の朝、外が明るくなってきたところで、寝室のカーテンにふと烏の影がさっと横切った。姿を見ているわけではないのだけど、けっこう大きな羽音がするから、それで気づいたのかもしれない。特にうたわれてはいないが、影がよぎるのだから、いい天気なのですね。

大手町の玻璃の水色日脚伸ぶ

季題「日脚伸ぶ」で冬(晩冬)。上五「大手町」とせず、あえて「大手町の」と字余りにして「玻璃の」につなげていく。ここではビルの壁面のガラスに空が映っているのだろう。その空が、ついひと月前なら16時半にはまっくらになっていたのが、いまでは17時でも水色の空として映っている。空が水色だ、と詠うかわりに、ビルのガラスに映っている空が水色である、としたところに小さな詩情がある。

(句帳から)

崖下の資材置場の飾かな
冬ぬくし車庫から電車出払つて
噛み合うてをらぬ会話も初電話
すこしづつ青味が増して初御空
→青味の増して

第104回深夜句会(1/12) [俳句]

初句会。
新しい職場を得て関西へ帰られる俳友の送別句会ともなった。

(選句用紙から)

疾走はみな美しく嫁が君

季題「嫁が君」で新年。家屋のねずみがいなくなったわけではないのだけど、こういう言い換え表現は、失われつつあることばのひとつかもしれない。句評では、「みな」が余計との意見があり、なるほどと感じる。「みな」と一般化する必要はなく、目の前にあるその疾走そのものを「美しきかな」としたほうがいいわけですね。


気味悪きひとりわらひの初笑

季題「初笑」で新年。自の句か他の句か判然としないのだけど―自の句であれば、さらに気味悪さが増幅されるのだけど―、この句の眼目は、多くの俳人が無意識に避けるであろう「気味悪き」という措辞をためらいなく使っているところにある。自分も含めて、「気味悪い」ことを眼前のどんな事実を通じて表現するかに心を砕くわけだけど、いきなり「気味悪き」とくる大胆さ。

恋人がゐても缶コーヒー大事

季題「缶コーヒー」で(無理やり)冬。句評でみんなから「これは無季でしょう!」と言われてしまったが、あえて冬の季題として鑑賞すると、なかなか味わい深い句ではないかと。とても寒い日で、恋人がそばにいるのだけど、買ったばかりの熱い缶コーヒーを両手で―手袋をしているのかもしれない―大事そうにかかえている。

(句帳から)

タラップをつぎつぎ降りる皮衣

カルテット [音楽]

TBSが、弦楽四重奏(団)を題材にしたドラマを放送しているではないですか。これは見ないと。


 

第103回深夜句会(12/15) [俳句]

(選句用紙から)

照るはうへ明るいはうへ浮寝鳥
季題「浮寝鳥」で冬。海や湖沼や川に浮かんで冬を過ごしている水鳥のこと。
その浮寝鳥が、ぷかぷか浮かびながら、少しずつ日がさして明るいほうへ移ろって集まっている。それ以上の説明はないのだけど、水面に明るいところと暗いところがあるということからして、例えば、川の上に高速道路の高架がかかっていて、ある部分だけが明るくなっている風景などが想像される。それでなくても寒い冬の川にたむろしている鳥が、その中の明るい、暖かいところへ少しずつ群れ集まっている様子を考えると、その浮寝鳥の心持なども感じられて、温かな一句。

荷台より新聞卸し息白し
季題「息白し」で冬。夜遅く、新聞販売店の前にトラックが止まると、待ち受けていた店員が次々にトラックの荷台から新聞を販売店に運び込む。夜の道路で作業をするその息が、販売店からの光を受けて白く光っている。冬の夜遅く、商店街の中でそこだけが明るくなっている風景。
ここで「卸し」としたのは、各戸へ配達するバイクや自転車ではなく、販売店へ運んでくるトラックであることを明確にするためと思われるが、バイクなら殊更に「荷台からおろす」とは言わないので、普通に「下ろし」で十分通じるように思う。

(句帳から)

絵に描いたやうなおでん屋路地の奥
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