So-net無料ブログ作成
検索選択
前の15件 | -

本試験 [皿回し]

またやってきたこの季節。
がんばれ受験生!

ことしの東京会場は、早稲田大学と東京外国語大学。
エアコンは効いているのだろうか…

 

 
nice!(0)  コメント(0) 

第110回深夜句会(7/13) [俳句]

(選句用紙から)

重さうな車掌の鞄朝曇

季題「朝曇」で夏。通学の鞄とか通勤の鞄って色も形も大きさもさまざまだが、しかし中に何を入れるかは、持ち運ぶ人に委ねられているのが普通だろう。しかし車掌の鞄は、あれは業務上必要なもの(マニュアルとか、非常時の装備品とか)が必要な範囲で詰め込まれているはずで、まさかあの中に文庫本とかペットボトルは入ってはいないだろう。乗務している限りそれを携帯しなければならないというのは、お仕事とはいえ、この夏の暑さのなかではたいへんなことで、それが「朝曇」という季題をよく言い表している。

感想戦で「重そうな」について質疑。「重さうな」だと外から車掌の鞄に視線が注がれていて、視線を注いでいる作者がやや前景化するのだけど、むしろ「重からん」として車掌の側から鞄を見るようにさせたらどうだろうかと。なるほど。私は「重たげに」を思いついた。

かたつぶり塵もろともに掃かれけり

季題「かたつむり」で夏。庭とか路地のようなところであろうか。竹箒で掃き掃除をしていたら、葉っぱとか小石とかに混じって、そこにいたかたつむりも根こそぎ掃き出してしまった。
これも感想戦で、「もろともに」について質疑。「もろともに」だと、掃き出している竹箒の動作が強調されてかたつむりが一句の中心にこないのに対して、「塵にまじりて」なら、掃き出されたもろもろのものごとの中に入り混じっているかたつむりの様子がよりよく描けるのではないかと。確かに「もろともに」は非常に強い言葉なので、一網打尽で大きな動きとして強調されることになるから、かたつむりへの視線を保つためには、一見地味に見える「塵にまじりて」が支持されるかもしれない。

こういう議論が交わせるためには、参加者の言語感覚がある一定以上に研ぎ澄まされていなければいけないわけで、たとえ自分はその最後尾にいるとしても、この句会はありがたい存在。

(句帳から)

大西日横断歩道てらてらと

 

ハーゲン弦楽四重奏団演奏会(6/30) [音楽]

IMG_1886.JPG

ハイドン/弦楽四重奏曲 第78番 変ロ長調 Op.76-4「日の出」
ベートーヴェン/弦楽四重奏曲第11番「セリオーソ」 Op.95
シューベルト/弦楽四重奏曲第13番「ロザムンデ」D.804

新装開店の武蔵野市民文化会館小ホールは、座席の幅も少し広くなったような気がして快適(気のせい?)。
前から2列目のど真ん中なので、演奏者が息を吸い込む音まで聞こえる。

ざっと見渡して、藪柑子より若いお客さんは5%、多く見積もってもせいぜい10%ぐらいしかいない。ハーゲンSQといえば弦楽四重奏の世界ではまず指折り数えられる存在だと思うし、弦楽器を弾く(あるいは、弦楽器を弾いて室内楽を楽しむ)若い人は東京にあまたいると思うのだけど、こんなものなのだろうか。

このぐらいのトッププロにとって、縦の線が合っているなどということはもう当り前なのだろうけど、それにしてもどうしてこれほどちゃんと合っているのかと。その一方で、エマーソンSQを聴いたときには、全体が一つの楽器のように聞こえたのだけど、このカルテットは、目を閉じて聴くと弦楽合奏、それも大規模な弦楽合奏のように聞こえるのですね。これは、最弱音から最大音までの幅の大きさと、あとは楽器の鳴り方によるものだと思うのだけど、控えめに意ってもなかなかできない経験。

ハイドンもベートーヴェンもよかったのだけど、演出控えめの「ロザムンデ」がすばらしい。こういう曲だと、分析とか解釈とか考える必要がないので、演奏者の音楽性がストレートに伝わってきて、しみじみと幸福感に浸れる。

アンコール:ベートーヴェン/弦楽四重奏曲第16番Op.135~第1楽章

(2017.6.30 武蔵野市民文化会館)

IMG_1888.JPG

OS復活 [雑感]

日本路線から去年撤退したOS(オーストリア航空)が、来年5月からウィーン・成田間で運航を再開するとのこと。
去年の撤退劇の衝撃はまだ記憶に新しいし、各社の相対的な日本離れの構図自体は変わっていないのだろうが、そうした中にあってこれはささやかな朗報。

 

第109回深夜句会(6/22) [俳句]

深夜句会では、披講の前に参加者が自分の選句から一句評をするのだけど、それを聞いていると、その人が一句のどこを見ているかの視点に気づかされ、勉強になる。披講のあとの感想戦(?)もそれと同じで、ここはAでなくBのような表現がとれなかったか、Bを採ると一句として何がどう違ってくるか、といったことを俳人同士が話し合う機会ってあまりないので、たいへん貴重な機会。

(選句用紙から)

駅の端のカフェの端にて麦酒酌む

季題「麦酒」で夏。駅の「は」の、と読んでしまいそうだが、カフェの「はし」にて、と読むからには、駅の「はし」の、と字余りにするのだろう。大きな駅のはじっこにカフェがあって、そのまた端のほうの席に座って、おそらく一人で麦酒を飲んでいるという図。「駅の端のカフェ」って何だといわれそうだけど、欧州の大きなターミナル駅なんかで、あまり使われていないような場所にカフェがあるのはよく見かける風景。改札がないので、列車を利用する人だけでなく、そのへんを歩いている人がふらっと入ってコーヒーをぱっと飲んで出て行ったりするのだけど、外国出張かなにかでそんな店に入って、知り合いがいるわけもないので、端の席にぽつんと一人で飲んでいる感じはよく伝わる。
感想戦で、ここは「酌む」とすると一人なのか二人以上なのかぼやけてしまうので、「飲む」でいいんじゃないかと。なるほどそう思う。

緑蔭の道のいづこへ続くなる

季題「緑蔭」で夏。木下闇なんていうことばもあるが、木かげの薄くらがりに、踏みあとのような道がある(どのような道であるか明示されていないが、立派な舗装道路なら「どこへ続いているのか」という疑問も生じようがないので、立派な道ではないものとして読んだ)。続くともなく木かげを続いていくその道は、さてどこまで続いているのだろうか。公園の端までか、森を抜けて隣の村までか…「いづこへ続く」に詩情があるのだけど、下五を「かな」とせず、「なる<なり」(=○○であることよ)として、「いづこへ続く」にかぶせて終わらせるところが見事。
(?いま思いついたのだが、この「なる」は、「小諸なる古城のほとり」の「なる」と同様、存在の判断をあらわす「なる」で、「道」を修飾しているようにも読める。どちらなのだろう。)

(句帳から)

内側がひどく汚れて夏帽子
うすみどり色のジャケット着て素足

 

アリス・フェルネ『本を読むひと』(デュランテクスト冽子訳、新潮社、2016) [本と雑誌]

grace.jpg

こういう本を書くのはとても難しく、一歩間違えれば上から目線で「フランス万歳、フランス語万歳」的な啓蒙本になってしまいそうだけど、そこがそうならないのがこの本の奥深いところ。

思うに、この本の読みどころは三つある。

一つには、「どちらの側も、均一平板ではない」こと。「どちらの側」という対立の図式自体が適切かどうかわからないが、ジプシーも、それ以外の人々も、一人ひとりに考えがあり、決して均一ではないところがストーリーに立体感と納得性を与えている。たとえば野菜畑の所有者であった老教師の考えかた、キャンピングカーを出て定職につくヘレナの考えかたなどなど。

もう一つには、「どちらの側も、ある部分は変わり、ある部分は変わらない」こと。本を読んだり、学校に通ったりすることについては、どちらの側でも、しだいに事態がうつろい、これまでになかったようなことが起こっていく。他方で、ジプシーの生活の根底にあるものや、地域社会の行動原理のようなものは、良くも悪くも変わらない。

三つ目には、死をどのように描くかということ。
本書における死の描かれ方は、ものすごく目新しいものではないが、それが登場人物の物の考え方や行動様式と整合するように描かれているので、その人の人生の終わり方として、それが悲惨なものであっても、そうかもしれないなと思わせるものがある。

ちょうどフランス大統領選挙の時期にこの本を読み、フランスの社会が20年にわたるロングセラーとしてこの本を支持してきた理由を考えると、それは「そういう課題が存在する」ことを社会が認知しているからに他ならず、そしてこのような課題がはらむ緊張関係や拮抗する力―それは復元力につながる―こそが、フランスの力を構成するひとつの要素ではないかと感じられる。


第108回深夜句会(5/11) [俳句]

(選句用紙から)

夜濯の終了音やハイツM

季題「夜濯」で夏。もともとは、夏の日中の暑さを避けて、夜になってから洗濯をすることが季題として詠われる。洗濯機なら人がついていなくてもいいから、一日中いつでも回せるのだけど、それでも夜になっていくぶん涼しくなってから洗濯機を回しにかかるという風情はわかるというもの。
で、「終了音」なので全自動洗濯機の洗濯+脱水が終わってピーという音が響いているのだけど、それが聞こえるということは、この「ハイツM」の共用廊下だかベランダだかに、各住戸の入居者の洗濯機が並んでいる風景が想像されるのですね。もう少しいうと、洗濯機置き場は住戸の中にあるのが当節の主流なので、このハイツMは、学生向けの小さなアパートか、かなり古典的なアパートであることも想像され、その「ピー」は、隣の住戸にもその隣の住戸にも、聞こえているわけだ。

薄く濃く新茶の袋皆緑

季題「新茶」で夏。新茶じたいではなく、新茶を入れて売られているアルミ包装のような袋が、どれも「みな」緑色をしていた。それがどうしたのと言われそうだけど、パッケージを考えた葉茶屋さんが、いろいろ考えた末なのか、無造作にした選択なのか、新茶の緑色を選んでいることが面白い。

蝶々のふらついてゐてぶつからず

季題「蝶」で春。「ふらついてゐ」て、でも「ぶつから」ないのは、複数いる蝶々が相互にぶつからないのか、それとも蝶々がフェンスや柵にぶつからないのか定かでないが、蝶の独特な飛び方―予測不可能なあの飛び方―を、説明に陥ることなく、描けていると思う。

(句帳から)

花茨小学校の先に海
街薄暑三車線づつ渡り終へ



岩波文庫創刊90年記念「私の三冊」(『図書』臨時増刊) [本と雑誌]

古今東西の名著が母語で読めるのはとてもステキなことだと思うので、日本スゲー派のひとびとは、岩波書店の刊行物を(少なくとも岩波文庫を)もっと誇りに思ってもよさそうなものだけど。

いつもの通り、「各界を代表する皆さまに」アンケートをお願いしたもので、
今までに読んだ岩波文庫のうち、
・今日なお心に残る書物は何か あるいは
・ぜひとも他の人びとにも勧めたいと思われる書物は何か
三点を選び、あわせてそれぞれに短評を書き添えてほしいというもの。

読者としては「ああ、この人がこんな本を選んでいるのね」と楽しみに読むのだけど、「この人なら、そりゃ確かにこれを選ぶだろうね」という順当な(従って面白くない)選択もあれば、「えっ、この人がこんな本を推しているのか」という驚きの選択もある。

後者の例として、坪内祐三氏が『オーウェル評論集』を挙げていること。坪内氏が開高健を愛読していたら、その開高健がオーウェルのエッセイの素晴らしさについて語っていたので、それが日本語で読める日を待っていたと書かれているのだが、坪内祐三氏とオーウェルはどうにも結びつかないし、オーウェルの評論のかなりの部分は岩波文庫に収録される以前から日本語で出版されていたわけなので、この回答は何だかよくわからない。

選ばれた本のなかでは、自分だったら最初に挙げるであろう『自省録』を6人もの人が挙げていることが少し嬉しい。ちなみに宇野重規さん、清家篤さん、旦敬介さん、野崎歓さん、山口範雄さん、四方田犬彦さんの6人。

では、このアンケートのように3冊挙げよと言われると、上掲『自省録』以外の2冊は何になるのか、ちょっと迷う。
入りそうなものとしては、『アメリカのデモクラシー』『暗黒日記』『イギリス名詩選』『石橋湛山評論集』『イスラーム文化』『オーウェル評論集』『虚子五句集』『三酔人経綸問答』『ベートーヴェンの生涯』『福翁自伝』『森の生活』『闇の奥』『ロビンソン・クルーソー』『忘れられた日本人』あたりか。もっとも、『ロビンソン・クルーソー』は岩波文庫でなく、岩波少年文庫で読んだのだけど、結構難しかった記憶が。

3冊セットとしての選択がもっとも自分に近いものとしては、
片山善博さんの『生の短さについて』『石橋湛山評論集』『福翁自伝』
清家篤さんの『文明論之概略』『寺田寅彦随筆集』『自省録』
って、どちらも慶応義塾にご縁のある方ですな。

もっとも、回答者の多くは80周年や70周年のときにも同様のアンケートを求められていると思うのだけど、その際の答えと今回の答えがそんなに変わる性質のものとも思えないので、どうやって回答に新味を出そうとしているのか、それらを照らし合わせて読んでみたい気もする。

番町句会(4/14) [俳句]

締切時間を15分超過して会場に到着(移動中に遅参を連絡し、特段の思し召しで待っていただいている)し、会衆のみなさまが既に投句を終えて見守る中、兼題「春の蠅」に脊髄反射で必死に対応。将棋早指し選手権のようだ。

20170414.JPG

(選句用紙から)

遠くあり近くありして春の雲

これ、私なら「遠くなり近くなりして」とやってしまうことが確実。「遠くあり近くあり」って、一見何でもないようだけど、なかなかできない、すばらしい表現。雲が(または自分が)動いているのでなく、遠くにも近くにも雲があります、と言っているわけだ。比較的ゆっくり動いているか、ほぼ静止しているのだろう。このたゆたう感じが、まさに春の雲なのですね。もっとも、「凍雲」なんていう季題もあって、冬の雲もじっと動かないことがあるにはあるけれど。

どの川も富士の雪解や音高き

季題「雪解け」で春(早春)。富士の山麓では、4月でも雪解水がごうごうと流れているのだろう。どの川「も」ということは、大河に沿ってではなくて、小さな流れをいくつも越えて、等高線に沿うようにして裾野を歩いているのだろうか。


(句帳から)

ガラス戸の内側にゐる春の蠅
制服に手が生え足が生え四月
小径を麓へたどり春深し

冬はどこへ行った? [俳句]

光が丘のIMAホールへ行く道すがら、地図を眺めていてふと気付いた。

光が丘地区に「春の風小学校」「夏の雲小学校」「秋の陽小学校」という名前の小学校があるのだけど、なぜか「冬の○小学校」だけがないのだ。その代わり?なのか「四季の香小学校」というのがある。

hikarigaoka_map.png

なんだこれは。
春、夏、秋ときたら当然冬じゃないのか。
練馬区教育委員会が、冬は小学生にふさわしくないと考えたのだろうか…電話して聞いてみようか…

と思いながらもう少し地図を眺めていると、それぞれの小学校と同じ名前の公園が近くにあるので、どうやら、「地名がそうなっているので、それに合わせて小学校の名前もつけちゃった」みたいだ。
(ちなみに、練馬区のウェブサイトを見てみたら、この4校はもともと8校あった小学校を統合再編して2010年に開校した模様で、それまでは単に「第1小学校」から「第8小学校」だったらしい)

そうすると、この疑問を解くには、光が丘地区が米軍から返還された当時、どうしてこの(冬のない)地名を創設したのかを調べないといけないのだけど、ちょっと難しそう。練馬区の図書館とかにいけば調べられるのかな。

この気持ち悪さを掘り下げて考えると、原因は二つあって、
 ・冬がないことの気持ち悪さ(冬が排除されているように見えることへの腹立たしさ)
 ・春・夏・秋・四季という並びの気持ち悪さ(MBA風にいえば、MECEでないことの気持ち悪さ)
ではないかと。

余談だが、冬にちなんだ小学校の名前を考えるとしたら何がいいか。ここは俳人の腕の見せ所なのだけど
 ・冬の星小学校
 ・冬の晴小学校
 ・冬の森小学校
なんかどうでしょう。

 

第107回深夜句会(4/13) [俳句]

初めて参加される若い男性が、「この句会が生まれて初めて参加する句会」だとおっしゃるので、会衆一同大歓迎。自分の「はじめての句会」っていつだったのだろう。1980年の秋から冬にかけてのどこかだと思うのだけど、記録もないし、もう全然覚えていない。こんなに長く俳句を続けるとは思ってもみなかった。

(選句用紙から)

桃色の少し差したる桃の花

うぐいすを見て「うぐいす餅の色だね」と言うジョーク(?)があるけど、桃の花―ここでは白い花なんだろう―をよく見ると、そこにうっすらと桃色が差している。ここでは虚子の「白牡丹といふといえども紅ほのか」が連想されるが、白い花といってもかすかに赤みがかっていて、その赤の色が他ならぬ桃色だ、というのは、眼前の事実であるので、言葉遊びのみに陥ることをまぬかれている。

焦げ目よし花の餃子と云うべしや

季題「花」で春…ということになろう。花の宴とか花見酒とはいうが、花の餃子って何なのということだが、花見に誰かが持ってきた焼き餃子の焦げ目を見て、参加者がたわむれに「これぞ花の餃子だ」などと言い合っているのだろう。「焦げ目よし」の藪から棒加減も、たわむれにそう言っていることを示しているのだろう。「云うべしや」の「べし」は適当(そのように言いなすのがよい)の「べし」であろうか。

(句帳から)

春の星いただいてをる山地かな
ゆでこぼしながら低唱春深し




増田俊也『七帝柔道記』(角川文庫、2016)【ネタバレ注意】 [本と雑誌]

nanatei.jpg

「初めての作家」3連発の最後に、すごい作品に出合ってしまった。早くもことしのベスト1確定かもしれない。ページをめくりながら、終わりに近づくのがもったいない思いをするのは久しぶり。

舞台は札幌、時代は昭和の終わりごろなのだけど、こういう世界が実在したのですね。"想像を絶する"という陳腐な表現しか思い浮かばないぐらいすごいことが、ふつうのキャンパスライフ(死語?)を送る一般学生のすぐ隣で行われていることに、まず驚く(体育会の他の部との比較も描かれているので、体育会だからということではないでしょう)。柔道部員の一人ひとりのキャラクターも、ていねいに描かれていて楽しめる。

かといって、選び抜かれた人々が世間から隔絶された高みですごいことをやっている、という描かれ方ではなく、ときどき出てくるふつうの学生やふつうの市民(これがまた魅力的)とのやりとりに、何ともいえない味わいがある。

また、小説としてすごいところは、凡百の青春小説にありがちな、そこそこのハッピーエンドをまったく用意していないところ。むしろ、どん底ともいえる状態で終わっている。それにしても、こういう終わり方ってありなんだろうか。未回収の登場人物や挿話がいくつかあるし…と思いながら解説を読むと、一応続編があるのですね。これは一刻も早く読みたい。

小説といっても作者の実体験を描いているので、エピソードの積み重ねに不自然さがなく、とても受け入れやすい。こうした場合、むしろ無数のエピソードのどれを採り、どれを採らないか迷うと思うのだけど、よく考えて選ばれているようで、「あるべきエピソードが、あるべき場所にある」感じがする。作者自身の経験が作品化されたという成り立ちは藤谷治さんの『船に乗れ!』とも共通しており、描かれている世界は全然違っても、特異な求心力という点では同じ印象を受ける。

 



第106回深夜句会(3/23) [俳句]

(選句用紙から)

瀬の中の小さき淵や春の水

まだ上流の、歩いたり走ったりしている川なのだろうが、そのたぎる瀬のなかの、ある一部分が、そこだけ傾斜が緩いのか、水が比較的静かでなめらかに移ろっている。それを「瀬のなかの淵」と切り取ってきたところにこの句の眼目がある。またその「小さき淵」に移ろっている水の色や、映り込んでいる空の色なども想像されて、率直にいい句だなあと思う。


夜を徹して読了したる辛夷かな

季題「辛夷」で春。手紙とか訴状だと、さすがに夜を徹して読むほど長くはないだろうから、まあ小説であろうか。明日の用事に差し支えるから途中でやめて寝なくちゃと思いながら、とうとう朝までかかって全部読んでしまった。そこで寝床にもぐりこむのか、それとも支度して出かけるのかわからないが、そうしている視線の先に、ふと辛夷の白い花がちらちらしているのが見えた。朝の光を受けて白く揺れている辛夷の花が、さきほどまで夜を徹して読んでいたものの内容との差において、視覚的にそうである以上に心理的にまぶしく感じられた。
「読了したる」の後で切れるのだけど、下五が「かな」で終わっているので、やや落ち着かない。他にうまい言い方があるのかもしれない。


(句帳から)

うららかや電車並走してゐたる
入園式のご案内貼り冷蔵庫
シースルーエレベーターの日永かな

 

生への列車・キンダートランスポート(『世界』2017年3月号) [本と雑誌]

細野祐二さんの「東芝・債務超過の悪夢」を読もうと思って買ったのだけど(いゃ、そっちも面白い内容だったのだけど、「正味運転資本調整」のところがよくわからない(財務諸表論では出てこなかったのだけど、最近のルールなのか、それとも会計士さんしか知らないルールなのかな?)ので、ちょっと引っかかる)、戦前戦中のドイツでこんなことが行われていたとは知りませんでした。あの時代状況で、危険を顧みずというべきか、すさまじい行動力というか、頭が下がるとしかいいようがない。

クエーカーの人々のプレゼンスというのは、イギリスやアメリカではむろんのこと、大陸においても、これほどに大きなものなのですね。

番町句会(3/10) [俳句]

きょうのお題は「苗木市」。
これが難しいのは、あまり実景に接したことがないから。

(選句用紙から)

灯籠に寄りかからせて苗木市

季題「苗木市」で春。寺社の門前とか境内なので、手ごろな場所に「灯篭」があるわけだが、その灯篭に寄りかからせるようにして、すこし背の高い苗木が売られている。根元が鉢でなく、丸くつつまれていて、また、そこそこ背が高い苗木であるから「寄りかからせる」ことになるわけで、そんな無造作に置かれている苗木の様子がわかる。

乗り継ぎを待つ空港の日永かな

季題「日永」で春。乗り継ぎ便を待つ間、小さな空港だと何もすることがない。海外での乗り継ぎなんかだと、ことばもわからないし時間つぶしのネタもないしでいっそう手持ちぶさたになる。ガラス張りの向こうには、空港のさまざまな車両や施設が見えるが、それらにも春の日が当たっている。日ごろあわただしい人ほど、乗り継ぎの手持ちぶさた感が強いのではないかと思うが、それに「日永」という季題がよく調和している。

飯場にもクロネコの来て日永かな

PCな日本語だと「作業員宿舎」になるのだろうか。そこへ宅急便のトラックがやってきて、また去っていった。ただそれだけなのだけど、「住宅」でも「商店」でも「会社」でもない寄宿舎のような場所に、宅急便のトラックがやってきて生活上必要なものを置いて帰っていく、という発見(発見とまでいえないかもしれないが)がこの句の眼目。ただ、「も」が散文的で、他の言い方がなかったか検討の余地がありそうな。


(句帳から)

駅までのシャッター通り苗木売る
月朧イギリス大使館の庭
春宵や角のビストロまず灯り
→まづ灯り

  
前の15件 | -
メッセージを送る