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助け合う登山者 [俳句]

北横岳ヒュッテのご主人島立健二さんが、10月9日の「山小屋便り」で御嶽山の噴火に触れ、次のように述べている。

(以下引用)

(このような不幸な状況にあって、)見ず知らずの登山者の不幸を、仲間に起きてしまった出来事のように思えることは山を愛する者同士の仲間意識の強さを感じ、それが登山中に何かあった場合に助け合うという意識につながると思え心強く感じました。

(以上引用終わり。ただしカッコ内は藪柑子が補った部分)

島立さんはふだん、装備不足や安易な判断など登山者の軽率な行動を厳しく戒めているのだけど、その島立さんの言葉であるだけに、重みがあるし、共感できる。

それなりの山に登ると、頼れるものは自分の体力と判断だけという経験をするわけだけど、それは、言葉を換えれば、自然の猛々しさに比べて人間がいかに無力を痛感するということでもある。
そのような中だからこそ、自然の猛威を凌いで生き延びるために人間が助け合うわけで、それは何も、理屈や教義からくるヒューマニズムや博愛精神というより、もっと本能的土俗的な相互扶助のようなものだと思う。

そして、俳人は、そのような自然に対する畏敬や恐怖を通じて、季題と自分の相互関係や立ち位置を何度も確認し、同時に、季題に向けるまなざしを磨いていくのではないかと。かなり牽強付会だけど。


ハナミズキの実。このところの寒さで、毎朝通るたびに赤さを増していく。
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第78回深夜句会(10/16) [俳句]

(選句用紙から)

教会がこんなところに虫時雨

季題「虫時雨」で秋。
むかし「こんなところに総務省」というコピーがあったが、自分の住んでいる町なのか働いている町なのか、いずれにせよ、よく知っていると思っていたその町のどこかに、思いもかけず教会があった。その軽い驚き「こんなところに」が過ぎ去ってみると、その教会のまわりの植え込みは、虫の声がしきりであった。
(「こんなところに」の後の軽い切れがいい感じ)
小さな村の教会だったら住民が知らないわけないし、村中どこでも虫時雨だろうから、この句はしっくりこない。そうすると、都会あるいは近郊の住宅地のようなところで、立ち並ぶ民家のうちの一軒が教会だったりするのではないかなあ。


魔法使いサリーに似たる案山子かな

季題「案山子」で秋。
収穫を迎えようとする田畑にかかしが立っているのだが、その案山子が「魔法使いサリー」に似ているという。ただいま絶賛流行中のアニメの主人公とかではなく、ひとむかし前のアニメがなぜ…という思いを作者も読者もいだくのではないだろうか。そこにこの句の面白さのひとつがある。「似ているのではなく、最初から似せて作られたのではないか?」という句評も。だとすると、魔法使いサリーを知っていて、似せて作ることができるぐらいの年代の人が作っているのだということになり。面白い。
もうひとつの面白さは、案山子が「魔法使い」に似ているというところ。句評では、「オズの魔法使い」にかかしが出てくるように、そもそも「かかし」と「魔法使い」は親和性があるのではとの声も。なるほど。

(句帳から)

予備校の運動会のマスゲーム
台風の闇から始発電車来る


番町句会(10/10) [俳句]

会社を出るのが遅れ、締切時間に間に合わない!
移動する地下鉄の中で短冊を書く。きょうの兼題は「紫菀」「懸巣」。
結局3分遅刻したが、みなさまのご配慮で大事に至らず。感謝。

(選句用紙から)

小学校保育園とも運動会

季題「運動会」でとりあえず秋。
小学校保育園「とも」の「とも」が一句の眼目で、両者が別の場所にあるとすれば、「どちらも今日が運動会なのだそうだ」という伝聞として鑑賞可能というのが師匠の句評。うちの近所でも、自転車で移動していると小学校の運動会があって、またしばらく走っていくと今度は別の小学校の運動会があるなどという経験をしたばかり。他方、ふと思ったのは、地方の小さな村なんかで、小学校も中学校も保育園も同じ敷地にあるような、そんな小さな学校の風景としても読めるのではないかと。

日の紫菀雨の紫菀を愛すかな

季題「紫菀」で秋。
紫菀は、その可憐な語感の割にはけっこう丈のある花なので、わざわざ間近からじっとのぞき込まなくても、道から庭をのぞいたり、家の中から窓の外を見たりして愛でることができる。この句はおそらく、天気のよい日も、また雨降る日にも、例えばリビングの同じ場所から、あるいは門から玄関までの通路から、庭のどこかに咲く紫菀を愛でている。これが草丈5センチくらいの小さな小さな花だったら毎日そこまで歩いて見に行かないと「愛すかな」にならない。また、「照る日曇る日」的な言いかたをすると、あまりにあまりなのだけど、「日の紫菀雨の紫菀」にはそれぞれの風景が想像され、格調と矜恃が感じられる。

(句帳から)

コスモスをかき分けてくる電車かな
住まはれてをりし名残の紫菀かな
緑濃きレモンを買うて帰りけり
雨降つて町を濡らして虫の夜
秋雨のいつまでも降る日曜日

マーガレット礼拝堂オルガンレクチャーコンサートシリーズ10「編曲の愉しみ〜オルガン曲になった名曲たち」 [音楽]

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前半は、この礼拝堂のオルガニスト岩崎真美子さんによる「日本におけるオルガン(パイプオルガン)の受容」ともいうべきレクチャー。戦前に海外から持ち込まれたオルガンのほとんどは戦災で烏有に帰したが、教会以外の場所に広くオルガンが置かれるようになったきっかけが1972年のNHKホールだったこと、そのオルガンが「紅白歌合戦」で使われたことで、オルガンが多くの人に認知されるようになったことなど。

その後、コンサートホールや学校などさまざまな場所にオルガンが置かれるようになり(築地本願寺にもオルガンがあり、仏教讃歌のようなものが演奏されているという)、現在550を超えるオルガンが全国にあるが、その中で日本独特の現象として、「結婚式場のオルガン」がたくさんあるのだという。なるほど。面白いことに(いや、面白がってはいけないのだけど)、コンサートホールのオルガンは、オルガン曲で人を集めることが難しいので、その多くが稼働率の低さに悩んでいるのに対して、結婚式場のオルガンは、なにしろビジネスであるからして、結婚式のたびに日々しっかり稼働しているのだそうだ。

オルガン自体についていえば、1970年ごろからのエレクトロニクス化の進展で、演奏席とオルガンを分離することができるようになり、また、あらかじめ設定したプログラム通りに多くのストップを操作するといったことも可能になっているという。これでオルガンの名曲がよく知られるようになれば、せっかくのオルガンがもっと活躍できてよいのだけど…オルガニストをめざす男の子か女の子を主人公にした漫画とか、できないものですかね。

後半は、ディジョン大聖堂のオルガニストであるモーリス・クレールさんによる演奏で、時代に沿って16世紀から20世紀までの「教会音楽でない」オルガン曲の数々。1曲目に演奏されたC.Gervaiseという16世紀のフランスの作曲家の「古典舞踊組曲」を聴くと、素朴に楽しい曲で、その時代を彷彿とさせるというか、バッハの音楽に多くの舞曲が取り入れられている理由がわかるような気がした。

(20143.9.27 聖マーガレット礼拝堂)

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