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第81回深夜句会(1/15) [俳句]

お昼前から雨で、街はまっくら。
そんな中でカフエ「マメヒコ」には、ともしびのようにレモンが積まれている。

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(選句用紙から)

母が父に教へ雑煮のつくり方

季題「雑煮」で新年。
母が父に、雑煮の作り方を教えている。これはなかなかに面白く味わい深い風景。
面白さの1点目は、作者が俳句を詠む年齢であるからして、母も父もそれなりの年齢であるということ。それまで教えることのなかった雑煮の作り方を教える、ということの背景が想像されて面白い。巷には、定年を迎えて俄かに料理に目覚める男性とかいるようだけど、それ以外にも、母が父に「これからは料理ぐらいできないとね!」とか言いながら教えているとも想像でき、結婚以来数十年にして雑煮教室となったということがまず面白い。
次に面白いのは、教える対象が雑煮であること。鮭のムニエルとかかぼちゃの煮物なんかだと、正しいやり方はほぼ一通りに限られるので、それ以上の広がりがないのだけど、地方ごとに大きく異なる「雑煮」が対象となると、厨房で「えー!」とか「本当に?」とかさまざまなやりとりが想像される。帰省した息子か娘がそれを後ろから見ているわけだ。「教へ」がちょっとこなれていない感じ(軽く切れるのに、そのあとに目的の「雑煮」が出てきてしまう)だが、それを差し引いても十分味わえる一句だと思う。

寝て覚めて駅に着きたり水仙花

季題「水仙」で冬。「黄水仙」だと春になるのがお約束。
列車の中でうとうとしていて、自分の目的地である駅に降りた(あるいは、ふと停車した駅ということでもいい)。そうすると、その駅のホームの植え込みだかプランターには水仙の白い花が植えられていた、ということなのだけど、ホームにじかに草木が植わっているような、そんな小さな駅だということから、遡って「寝て覚めて」も、新幹線の静かな車内でうとうとではなく、ローカル線のごとんごとんを聞きながら寝ていました、ということが了解される。「着きたり」でなく「着いたり」または「降りたり」でどうだろうか。

(句帳から)

司会者のうしろ餅花揺れてをる
青木の実いま色づいてゐる途中

新探勝会(1/11) [俳句]

ずっと欠席していた新探勝会に出席。立川にある臨済宗普濟寺へ。

東西に伸びる参道の西の突当りに大きなお堂があるのだけど、その先は西向きの崖になっていて、多摩川をはさんだ向かい側までの距離は1キロもないぐらい。崖のあちこちに薮椿が咲いているのが好ましい。
ただ、参道の両側は墓地ばかりで、また参道の並木も植えたばかりのような桜の木で、がらんとした印象なのが残念。
会報の記録を仰せつかったので、詳細は後日追記にて。

(選句用紙から)

寒の富士少し傾きゐるかとも

季題「寒」で冬。「寒の水」とか「寒晴」などと。
いちばん寒さの厳しい寒の内のこの時期に、雪をいただいた富士山を見ると、その山体が少しかしいでいるかな、とも思う。シルエットにしか見えない夏の富士と違って、雪が載った富士は凹凸がわかるので、より立体に近く見えるという理屈はさて置いて、好ましく感じたのは「ゐるかとも」の少しひいた物言い。「ゐたるかな」だったら傾いていると断定しているのだけど、そうではなく「ゐるかとも」なので、傾いているかな、いゃそうでもないかな、ということなのだ。それがどうしたの、と言われそうだが、ちょっとそう見えるような見えないような遠さに富士がある、いうことを意味しているのだと思う。

大寺の椿の崖の今むかし

季題「椿」で春。
崖の上、あるいは崖の下に大きな寺があって、その崖に椿が咲いている。それも、そういえば崖に椿が咲いていました、という程度でなく、「椿の崖」というほどに目だたしく咲いている。そして自分は、かつてもその椿を見たのだけど、それは既に「むかし」というほどの過去になってしまっている。「今むかし」と言ってそこで一句が終わっているので、そこが一句の中心になってくるが、いま見ているその「椿の崖」の今むかしを詠むことは、そのお寺の今むかし、さらには自分自身の今むかしにを詠むことであり、読み手はそのように思いをめぐらせながら一句を鑑賞することができる。

(句帳から)

鞘堂に日あたつてゐて春隣
冬空に足場のばして普請かな

番町句会(1/9) [俳句]

きょうの席題は「麦の芽」「碧梧桐忌」。難しい。

(清記用紙から)

初競りの河豚転がされふて腐れ

季題「初競り」で新年。河豚も冬の季題だが、ここではより個別性が強い「初競り」が季題に。
お祝儀相場ということばがあるけれど、そんな高値のつくような正月の競りの、その足元をふと見ると、青いプラスチックの箱に河豚が無造作にごろごろ放り込まれている。むろん初競りでなくても普段から転がされているのだけど、もっと細長い魚だと向きを揃えて入れられたりするところ、高価な魚であるのにこの扱いとは、と河豚がふて腐れているように見える。
「ふぐ」と「ふて腐れ」、「され」「腐れ」で頭韻脚韻揃っているリズムの巧みさも目を引く。

ベルギーは山無き大地麦は芽を

季題「麦の芽」で冬。
むろん日本でも麦は栽培されているのだけど、「麦秋」ぐらいならともかく、「麦の芽」となると、日本で実際に見る機会は少なくなってくる。この句ではベルギーになっているのだけど、山間地でなく真っ平らあるいはわずかな起伏を伴って続いていく畑に、緑の点をまき散らしたように麦の芽が出ている、という風景。土の色や畑の形などが想像される。

(句帳から)

麦の芽のかなたに古城見ゆるかな
初明り部屋にさしこみ静かなる
踏切が鳴つて二両の初電車
退職の仔細をホットウイスキー

降臨節第4主日 降誕日礼拝(12/21) [雑感]

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英国国教会のクリスマス礼拝ってどんなものだろうと思っていたのだけれど、日曜日の朝に礼拝があるのですね。こういう時間なので、むろんまわりは信者さんばかり。

司祭の説教のなかで、イエスがベツレヘムの「馬小屋で」生まれたことの意味について司祭がお考えになったこと、というお話があって、なるほどと思う。住民登録のために故郷ベツレヘムへ戻ったヨセフは、なぜ馬小屋に滞在しなければならなかったのか、つまり、既に実家がなかったとしても、遠縁の親戚ぐらいいくらでもいたはずなのに、なぜどの家からも受け入れてもらえなかったのか、ということなのだけど。
また、ご自身が駅の階段を踏みはずしてホームまで転げ落ちた事故の経験を話された。ホームに横になってみると、人の顔が上に見え、そのはるか彼方に青い空が見えたのだけど、そのとき、馬小屋のかいば桶の底から見た風景もこういうものであろうと思い、当世風の「上から目線」とは逆に、イエスの生涯は「すべてのものを下から見ていく視点」ではじまったことに気付いたとのこと。

なるほどなるほどと思っているうちに、聖歌82番(神の御子は今宵しも、として知られる曲ですね)をみなさんで歌って終了。また見学させていただきたい聖餐式でした。



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