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第108回深夜句会(5/11) [俳句]

(選句用紙から)

夜濯の終了音やハイツM

季題「夜濯」で夏。もともとは、夏の日中の暑さを避けて、夜になってから洗濯をすることが季題として詠われる。洗濯機なら人がついていなくてもいいから、一日中いつでも回せるのだけど、それでも夜になっていくぶん涼しくなってから洗濯機を回しにかかるという風情はわかるというもの。
で、「終了音」なので全自動洗濯機の洗濯+脱水が終わってピーという音が響いているのだけど、それが聞こえるということは、この「ハイツM」の共用廊下だかベランダだかに、各住戸の入居者の洗濯機が並んでいる風景が想像されるのですね。もう少しいうと、洗濯機置き場は住戸の中にあるのが当節の主流なので、このハイツMは、学生向けの小さなアパートか、かなり古典的なアパートであることも想像され、その「ピー」は、隣の住戸にもその隣の住戸にも、聞こえているわけだ。

薄く濃く新茶の袋皆緑

季題「新茶」で夏。新茶じたいではなく、新茶を入れて売られているアルミ包装のような袋が、どれも「みな」緑色をしていた。それがどうしたのと言われそうだけど、パッケージを考えた葉茶屋さんが、いろいろ考えた末なのか、無造作にした選択なのか、新茶の緑色を選んでいることが面白い。

蝶々のふらついてゐてぶつからず

季題「蝶」で春。「ふらついてゐ」て、でも「ぶつから」ないのは、複数いる蝶々が相互にぶつからないのか、それとも蝶々がフェンスや柵にぶつからないのか定かでないが、蝶の独特な飛び方―予測不可能なあの飛び方―を、説明に陥ることなく、描けていると思う。

(句帳から)

花茨小学校の先に海
街薄暑三車線づつ渡り終へ



番町句会(4/14) [俳句]

締切時間を15分超過して会場に到着(移動中に遅参を連絡し、特段の思し召しで待っていただいている)し、会衆のみなさまが既に投句を終えて見守る中、兼題「春の蠅」に脊髄反射で必死に対応。将棋早指し選手権のようだ。

20170414.JPG

(選句用紙から)

遠くあり近くありして春の雲

これ、私なら「遠くなり近くなりして」とやってしまうことが確実。「遠くあり近くあり」って、一見何でもないようだけど、なかなかできない、すばらしい表現。雲が(または自分が)動いているのでなく、遠くにも近くにも雲があります、と言っているわけだ。比較的ゆっくり動いているか、ほぼ静止しているのだろう。このたゆたう感じが、まさに春の雲なのですね。もっとも、「凍雲」なんていう季題もあって、冬の雲もじっと動かないことがあるにはあるけれど。

どの川も富士の雪解や音高き

季題「雪解け」で春(早春)。富士の山麓では、4月でも雪解水がごうごうと流れているのだろう。どの川「も」ということは、大河に沿ってではなくて、小さな流れをいくつも越えて、等高線に沿うようにして裾野を歩いているのだろうか。


(句帳から)

ガラス戸の内側にゐる春の蠅
制服に手が生え足が生え四月
小径を麓へたどり春深し

冬はどこへ行った? [俳句]

光が丘のIMAホールへ行く道すがら、地図を眺めていてふと気付いた。

光が丘地区に「春の風小学校」「夏の雲小学校」「秋の陽小学校」という名前の小学校があるのだけど、なぜか「冬の○小学校」だけがないのだ。その代わり?なのか「四季の香小学校」というのがある。

hikarigaoka_map.png

なんだこれは。
春、夏、秋ときたら当然冬じゃないのか。
練馬区教育委員会が、冬は小学生にふさわしくないと考えたのだろうか…電話して聞いてみようか…

と思いながらもう少し地図を眺めていると、それぞれの小学校と同じ名前の公園が近くにあるので、どうやら、「地名がそうなっているので、それに合わせて小学校の名前もつけちゃった」みたいだ。
(ちなみに、練馬区のウェブサイトを見てみたら、この4校はもともと8校あった小学校を統合再編して2010年に開校した模様で、それまでは単に「第1小学校」から「第8小学校」だったらしい)

そうすると、この疑問を解くには、光が丘地区が米軍から返還された当時、どうしてこの(冬のない)地名を創設したのかを調べないといけないのだけど、ちょっと難しそう。練馬区の図書館とかにいけば調べられるのかな。

この気持ち悪さを掘り下げて考えると、原因は二つあって、
 ・冬がないことの気持ち悪さ(冬が排除されているように見えることへの腹立たしさ)
 ・春・夏・秋・四季という並びの気持ち悪さ(MBA風にいえば、MECEでないことの気持ち悪さ)
ではないかと。

余談だが、冬にちなんだ小学校の名前を考えるとしたら何がいいか。ここは俳人の腕の見せ所なのだけど
 ・冬の星小学校
 ・冬の晴小学校
 ・冬の森小学校
なんかどうでしょう。

 

第107回深夜句会(4/13) [俳句]

初めて参加される若い男性が、「この句会が生まれて初めて参加する句会」だとおっしゃるので、会衆一同大歓迎。自分の「はじめての句会」っていつだったのだろう。1980年の秋から冬にかけてのどこかだと思うのだけど、記録もないし、もう全然覚えていない。こんなに長く俳句を続けるとは思ってもみなかった。

(選句用紙から)

桃色の少し差したる桃の花

うぐいすを見て「うぐいす餅の色だね」と言うジョーク(?)があるけど、桃の花―ここでは白い花なんだろう―をよく見ると、そこにうっすらと桃色が差している。ここでは虚子の「白牡丹といふといえども紅ほのか」が連想されるが、白い花といってもかすかに赤みがかっていて、その赤の色が他ならぬ桃色だ、というのは、眼前の事実であるので、言葉遊びのみに陥ることをまぬかれている。

焦げ目よし花の餃子と云うべしや

季題「花」で春…ということになろう。花の宴とか花見酒とはいうが、花の餃子って何なのということだが、花見に誰かが持ってきた焼き餃子の焦げ目を見て、参加者がたわむれに「これぞ花の餃子だ」などと言い合っているのだろう。「焦げ目よし」の藪から棒加減も、たわむれにそう言っていることを示しているのだろう。「云うべしや」の「べし」は適当(そのように言いなすのがよい)の「べし」であろうか。

(句帳から)

春の星いただいてをる山地かな
ゆでこぼしながら低唱春深し




第106回深夜句会(3/23) [俳句]

(選句用紙から)

瀬の中の小さき淵や春の水

まだ上流の、歩いたり走ったりしている川なのだろうが、そのたぎる瀬のなかの、ある一部分が、そこだけ傾斜が緩いのか、水が比較的静かでなめらかに移ろっている。それを「瀬のなかの淵」と切り取ってきたところにこの句の眼目がある。またその「小さき淵」に移ろっている水の色や、映り込んでいる空の色なども想像されて、率直にいい句だなあと思う。


夜を徹して読了したる辛夷かな

季題「辛夷」で春。手紙とか訴状だと、さすがに夜を徹して読むほど長くはないだろうから、まあ小説であろうか。明日の用事に差し支えるから途中でやめて寝なくちゃと思いながら、とうとう朝までかかって全部読んでしまった。そこで寝床にもぐりこむのか、それとも支度して出かけるのかわからないが、そうしている視線の先に、ふと辛夷の白い花がちらちらしているのが見えた。朝の光を受けて白く揺れている辛夷の花が、さきほどまで夜を徹して読んでいたものの内容との差において、視覚的にそうである以上に心理的にまぶしく感じられた。
「読了したる」の後で切れるのだけど、下五が「かな」で終わっているので、やや落ち着かない。他にうまい言い方があるのかもしれない。


(句帳から)

うららかや電車並走してゐたる
入園式のご案内貼り冷蔵庫
シースルーエレベーターの日永かな

 

番町句会(3/10) [俳句]

きょうのお題は「苗木市」。
これが難しいのは、あまり実景に接したことがないから。

(選句用紙から)

灯籠に寄りかからせて苗木市

季題「苗木市」で春。寺社の門前とか境内なので、手ごろな場所に「灯篭」があるわけだが、その灯篭に寄りかからせるようにして、すこし背の高い苗木が売られている。根元が鉢でなく、丸くつつまれていて、また、そこそこ背が高い苗木であるから「寄りかからせる」ことになるわけで、そんな無造作に置かれている苗木の様子がわかる。

乗り継ぎを待つ空港の日永かな

季題「日永」で春。乗り継ぎ便を待つ間、小さな空港だと何もすることがない。海外での乗り継ぎなんかだと、ことばもわからないし時間つぶしのネタもないしでいっそう手持ちぶさたになる。ガラス張りの向こうには、空港のさまざまな車両や施設が見えるが、それらにも春の日が当たっている。日ごろあわただしい人ほど、乗り継ぎの手持ちぶさた感が強いのではないかと思うが、それに「日永」という季題がよく調和している。

飯場にもクロネコの来て日永かな

PCな日本語だと「作業員宿舎」になるのだろうか。そこへ宅急便のトラックがやってきて、また去っていった。ただそれだけなのだけど、「住宅」でも「商店」でも「会社」でもない寄宿舎のような場所に、宅急便のトラックがやってきて生活上必要なものを置いて帰っていく、という発見(発見とまでいえないかもしれないが)がこの句の眼目。ただ、「も」が散文的で、他の言い方がなかったか検討の余地がありそうな。


(句帳から)

駅までのシャッター通り苗木売る
月朧イギリス大使館の庭
春宵や角のビストロまず灯り
→まづ灯り

  

第105回深夜句会(2/23) [俳句]

(選句用紙から)

月朧マクドナルドのMが見え

季題「朧(月)」で春。ここでマクドナルドのMとは、都心のビルの中でなく、郊外のロードサイドなんかにある店舗で、車から見えるようにポールの上に掲げられているのではないかと。
で、あのMの文字は黄色で描かれているのだけど、その背後にある春の夜空には、やはり朦朧と春の月がかかっている。

電子レンジのともるも春の灯なる

電子レンジが回っているときに中を照らす電球は、むろん一年中同じように動作しているのだけど、いささか頼りないこの電球も、街灯や家のあかりと同様、また春灯であるなぁと感じられた。秋とか冬(寒灯)だと電子レンジの灯りには結びつきにくいので、季題の選択はこれでいいのだと思う。


(句帳から)

逃げ遅れて死ぬる話や山焼く火

夏潮新年会(2/19) [俳句]

ことしの選句用紙は79枚。
全部回すのも大変だけど、しかし今日は、すっと乗れる句が多くて楽しい句会だった。

(選句用紙から)

浅春の水の面のちぢみ皺

季題「春浅し」で早春。海なのか川なのか湖なのか池なのかは詠われていないのだけど、水面のわずかなさざ波について「ちぢみ皺」と叙したところが眼目。この句は違うと思うのだけれど、よく晴れた日に飛行機から瀬戸内海の海面なんかを見ていると、本当にこの感じはよくわかる。じゃあなんで「浅春」なの、という疑問が当然に浮かぶところで、むしろ早春は春一番とか東風が吹きまくったりして、波高しな日も多いと思うのだけど、日によっては、それまでの冬と違った穏やかな日があって、そんな日にはようやく春が来たと思うこともまた事実で、そんな日に詠まれた句なのではないかと。

温む濠船河原町遠からず

これはちょっと事情を知らないと選べないのだけど、『夏潮』誌の役割のひとつが虚子研究であるとすれば、かつて虚子が『ホトトギス』発行所をおいていた(丸ビルに移る前の発行所)は市谷船河原町つまりお濠の北側にあって、この句会場のちょうどトイ面ですね、というのがあって、堀端の風景が昔と変わらないのであれば、虚子もこんな風景の中を行き来していたのだろうか、ということまで思い浮かぶところ。ちなみに市谷船河原町はいまでも住居表示になっていないので、そのままの地名が使われている。

戦没馬慰霊塔みかんを一つ

季題「みかん」で冬。靖国神社にそういう慰霊塔があるのでしょう。中七と下五がわたっているが、それほど妙な感じはしない。みかん「が」一つじゃなくて、みかん「を」一つ、というところに、理不尽な死をとげた馬匹への愛情が感じられて、しかし過度にベタベタしていなくて、よいですね。

(句帳から)

浅き春飛行機雲のとぎれとぎれ
黒髪に茶色の髪に春日さす
濠端のわずかな斜面下萌ゆる
花ミモザから灯台へつづく道
雨樋のあのあたりから囀れる

番町句会(1/13) [俳句]

きょうの席題は「水仙」と「双六」。

(選句用紙から)

カーテンに影のよぎりて初烏

季題「初烏」で新年。「影のよぎりて」がなんとなく落ち着かない。「影のよぎれる」か「影がよぎりて」か。影「が」はちょっと無理っぽいので、やはり「影のよぎれる」でしょう。
元日の朝、外が明るくなってきたところで、寝室のカーテンにふと烏の影がさっと横切った。姿を見ているわけではないのだけど、けっこう大きな羽音がするから、それで気づいたのかもしれない。特にうたわれてはいないが、影がよぎるのだから、いい天気なのですね。

大手町の玻璃の水色日脚伸ぶ

季題「日脚伸ぶ」で冬(晩冬)。上五「大手町」とせず、あえて「大手町の」と字余りにして「玻璃の」につなげていく。ここではビルの壁面のガラスに空が映っているのだろう。その空が、ついひと月前なら16時半にはまっくらになっていたのが、いまでは17時でも水色の空として映っている。空が水色だ、と詠うかわりに、ビルのガラスに映っている空が水色である、としたところに小さな詩情がある。

(句帳から)

崖下の資材置場の飾かな
冬ぬくし車庫から電車出払つて
噛み合うてをらぬ会話も初電話
すこしづつ青味が増して初御空
→青味の増して

第104回深夜句会(1/12) [俳句]

初句会。
新しい職場を得て関西へ帰られる俳友の送別句会ともなった。

(選句用紙から)

疾走はみな美しく嫁が君

季題「嫁が君」で新年。家屋のねずみがいなくなったわけではないのだけど、こういう言い換え表現は、失われつつあることばのひとつかもしれない。句評では、「みな」が余計との意見があり、なるほどと感じる。「みな」と一般化する必要はなく、目の前にあるその疾走そのものを「美しきかな」としたほうがいいわけですね。


気味悪きひとりわらひの初笑

季題「初笑」で新年。自の句か他の句か判然としないのだけど―自の句であれば、さらに気味悪さが増幅されるのだけど―、この句の眼目は、多くの俳人が無意識に避けるであろう「気味悪き」という措辞をためらいなく使っているところにある。自分も含めて、「気味悪い」ことを眼前のどんな事実を通じて表現するかに心を砕くわけだけど、いきなり「気味悪き」とくる大胆さ。

恋人がゐても缶コーヒー大事

季題「缶コーヒー」で(無理やり)冬。句評でみんなから「これは無季でしょう!」と言われてしまったが、あえて冬の季題として鑑賞すると、なかなか味わい深い句ではないかと。とても寒い日で、恋人がそばにいるのだけど、買ったばかりの熱い缶コーヒーを両手で―手袋をしているのかもしれない―大事そうにかかえている。

(句帳から)

タラップをつぎつぎ降りる皮衣

第103回深夜句会(12/15) [俳句]

(選句用紙から)

照るはうへ明るいはうへ浮寝鳥
季題「浮寝鳥」で冬。海や湖沼や川に浮かんで冬を過ごしている水鳥のこと。
その浮寝鳥が、ぷかぷか浮かびながら、少しずつ日がさして明るいほうへ移ろって集まっている。それ以上の説明はないのだけど、水面に明るいところと暗いところがあるということからして、例えば、川の上に高速道路の高架がかかっていて、ある部分だけが明るくなっている風景などが想像される。それでなくても寒い冬の川にたむろしている鳥が、その中の明るい、暖かいところへ少しずつ群れ集まっている様子を考えると、その浮寝鳥の心持なども感じられて、温かな一句。

荷台より新聞卸し息白し
季題「息白し」で冬。夜遅く、新聞販売店の前にトラックが止まると、待ち受けていた店員が次々にトラックの荷台から新聞を販売店に運び込む。夜の道路で作業をするその息が、販売店からの光を受けて白く光っている。冬の夜遅く、商店街の中でそこだけが明るくなっている風景。
ここで「卸し」としたのは、各戸へ配達するバイクや自転車ではなく、販売店へ運んでくるトラックであることを明確にするためと思われるが、バイクなら殊更に「荷台からおろす」とは言わないので、普通に「下ろし」で十分通じるように思う。

(句帳から)

絵に描いたやうなおでん屋路地の奥

番町句会(12/9) [俳句]

(清記用紙から)

猫はもの言はぬがよけれ漱石忌

季題「漱石忌」で冬(12月)。「吾輩は猫である」は猫がさまざまな独白をする物語だけど、実際に飼い猫がしゃべることができたなら、うっとうしくてたまらないだろう。この句が多くの票をあつめたのは、この「もの言はぬがよけれ」への共感と思われるところ。

英国とも交へし干戈漱石忌

漱石は英文学者としてロンドンに留学したりもしていて、そこでさまざまなエピソードも生まれてきたのだけれど、時期としては日露戦争の直前にあたる。それから40年もしないうちに、日本はイギリスとも戦火をまじえたのだった。英国と「も」とわざわざ言う必要があるか、考えるところ。「アメリカと戦争をしたのだけれど、漱石が留学していたその英国とも戦ったのだった」という句意になるのだろう。また、「英国と」だと、一句の中心が上五中七に傾いてしまい、漱石忌がどこかへ行ってしまうという配慮かもしれない。

(句帳から)

冬の影曳いて二台のベビーカー
ポプラ一列冬野と冬野隔てたる
一時間半も歩いて狩の宿

番町句会(11/11) [俳句]

きょうの兼題は「蕎麦刈」「鷲」。蕎麦刈りを目の前で見たことって、なかったような…

(清記用紙から)

蕎麦刈るやはるか低きに村の屋根

季題「蕎麦刈」で冬。山の斜面の段々畑で蕎麦刈りをしているのだけれど、ふと目を転じると、その段々畑のはるか遠く、ではなく、はるか下のほうに、村の家々の屋根がぽつんぽつんと見えている。
司馬遼太郎の小説(タイトルを失念した)の冒頭に、南信州のどこかの村についてのそのような描写があるけれど、まさにその世界である。
(もっとも、旧南信濃村の場合、山の上のはるか高いところに集落がある、不思議な風景なのだけど)

蕎麦刈るや虫やしないにメロンパン

それなりに広さのある蕎麦畑なのであろうか。蕎麦刈りの途中でちょっと休憩をとなったのだけど、そこで虫やしないにメロンパンをいただいた。握り飯とか海苔巻とかあんぱんじゃなくて「メロンパン」だというところにこの句の面白さがあって、専業でやっている老農夫だったらメロンパンなんか頬張らないだろうから、メロンパンを買ってわざわざ畑に持って行く人といったら、若い人であろうか。ひょっとして素人が、面白半分でやっているのかもしれない。そんな蕎麦刈りの様子がうかがわれる。

鷲が提げゆけるだらりとしたるもの

季題「鷲」で冬。鷲がその爪に獲物をとらえて運んでいくのだけど、その獲物はすでに動きを失って、だらりとぶら下がっているように見える。ちょっと前まで生きて動いていたであろうその小動物を「だらりとしたるもの」と捉えたことで、食う側食われる側の非情な戦いがかえって際立っている。

(句帳から)

蕎麦刈を了へて集合写真かな

第102回深夜句会(11/10) [俳句]

(清記用紙から)

猪が蚯蚓を掘りに来る御庭

季題「猪」で冬。蚯蚓も夏の季題だが、ここでは猪が一句の中心。山から現れた猪が畑のあれこれを食い荒らしたり、あちこちで悪さをするのだけれど、それが、名園といわれるようなお屋敷のお庭に入り込んで、蚯蚓を掘り散らかしている。いまそのお庭にいて、ここが猪に掘り返されたところです、などという話を聞いているところ。

「御庭」とすることで、単にそのへんの民家の庭先に入り込んだのではなくて、庭園として管理されているところとか、あるいは大きなお屋敷に付属する庭であることがわかる。そんなところまで猪が現れて、という気持ちの動きもあるのだけれど、それを表に出してあれこれ言わなくても、こんなところに猪が、という感じはよく伝わっている。

土嚢から草生えさらに帰り花

季題「帰り花」で冬。狂い咲きの意で、単に帰り花といえば桜の狂い咲きをさすのだけど、この句ではどうか。
大水のときにつまれた土嚢から芽が出て草が生え、「さらに」帰り花、としたことで、自分は「その草がさらに、ときならぬ花を咲かせた」と読んだのだけど、「草生え」でいったん切れて、さらに「桜の帰り花」ではないかとの指摘もあって、確かにそうとも読めるなあと。

鳩サブレ膝に小春の南武線

季題「小春」で冬。南武線といい鳩サブレといい小道具で読ませるのかと言われそうだけど、しいて解説しろと言われれば、東海道線や中央線とちがって短時間で乗り降りする人が多いことから、あわただしい中にも、紙袋を膝にのせてひと駅かふた駅電車に乗りながら、冬のはじめのよい天気をひととき愉しんでいると感じられる点だろうか。じゃあ「総武線」ではダメなのかといわれるとウーンなのだけど、少なくとも「五能線」はないことは了解されるわけで。


(句帳から)

忘れ物取りに戻つて今朝の冬
カフェの窓すこし濡らして夕時雨


第101回深夜句会(10/13) [俳句]

(選句用紙から)

雨だれの地に触るる音蚯蚓鳴く

季題「蚯蚓鳴く」で秋。地虫鳴くとか蚯蚓鳴くとかって、実際の虫の音というより、何かそのような音がするように感じられる、という趣旨なのだけど、ここで描かれている風景は、秋の雨が降り続いていて、その雨だれが地に「触れる」そのあるかないかの触れる音がずっと続いているのと呼応するように、蚯蚓の鳴く音が続いているように感じられる、という句意。巧みなのは、地を穿つ音とか地に跳ねる音とか(ぴちゃっという音)ではなく、あるのかないのかわからないような、地に「触るる」音、を持ってきたところ。どんな音なのであろうか、と読み手は一瞬考えるわけだけど、その「どんな音なのであろうか」がそのまま、蚯蚓鳴くにつながっていく。

かつて見し案山子を描いてくれにけり

季題「案山子」で秋。ちょっと入り組んだ状況で、目の前に案山子があるわけではなく、自分と話している誰かが、かつてどこかで見た案山子を絵に描いてくれた、ということか。その案山子が、よほど変った姿かたちをしていたのであろう。それがどんな形なのか一向にわからないところに弱点があるのだけど、広告の裏とかスケッチブックとかに風変わりな案山子の絵を描いて、自分のために説明してくれた、という一連の所作に感興を覚える、ということなのだろう。


(句帳から)

やや寒や街灯の下長電話
四十雀小学校の日曜日

第100回深夜句会(9/15) [俳句]

めでたく第100回。写真を撮り忘れたのが残念。

(選句用紙から)

石灰のラインの白し花木槿

季題「槿」で秋。運動会でもあるのだろうか、校庭やグランドに石灰で白い線が引かれているが、その横の塀際だかフェンス際には、木槿の花が群れ咲いている。石灰の線なのだからもともと白いのは当たり前ともいえるところ、その「白」がことさら白く感じた、というところに詩心があって、そこが木槿の白い色とも重なっているのですね。

秋草をテーブルごとに違う色

季題「秋草」で秋。テーブル「ごと」と言っているので、自宅とかではなく、多くのテーブルを擁する場所、例えばレストランのような場所が想像される。そこへ秋草、たとえば桔梗とか女郎花とかを卓上花として飾るのだけど、テーブルごとに異なる草花をいけた、という句。自分や自分のスタッフがそのようにいけた、という立場で詠んでいるのか、それともお客として訪ねてみたらこうだった、という立場で詠んでいるのか判らないところが残念だが、秋の草花のさまざまな色が感じられる一句。

(句帳から)

青山のカフェのバケツの叢芒
脱毛サロン育毛サロン爽やかに
かなかなのいつもデクレッシェンドかな

番町句会(9/9) [俳句]

きょうのお題は「太刀魚」「葛の花」。このところ毎回、締切ぎりぎりに到着しているので、席について数分以内に句を詠んで提出するのは、なかなか体に悪い。

(選句用紙から)

家墓は畑の中に韮の花

季題「韮の花」で秋。白く群れ咲く花ですね。
畑の一角を切り取るように小さな墓があって、そこが一家一族の墓地になっている。ここでの畑は、北海道の広大な畑よりは、たとえば南信濃あたりの、山の上まで段々に耕されている中に家が点々とあるような、小さな畑の一角なのだろう。で、その小さな墓、小さな畑、小さな家のある風景のなかに、いま韮の花が白く咲いている。

花葛や初心(うぶ)は濃ゆきを慕ふもの

こういう変化球は楽しい。季題「葛の花」で秋。ちなみに葛は秋の七草でもある。
葛の花は、竜が頭をもたげるようにして下から咲いていくのだが、花の色は一様でなく、淡い花片(あれは花片なのか?)と濃い花片がみっしり集まって咲いている。そこで目だたしいのは、当然に濃い部分であって、葛の花といったらまずその濃いところに目が行くのだけど、淡い部分、内側の黄色い部分も含めて全体のすがたかたちこそが葛の花なのである。

…と書くとなんだか当たり前だが、この句のもう一つの意図はむろん、「初心」の男子が「濃ゆき」女子を慕ってしまうというところにあって、うふふなのである。それがあまりに前景化するとうるさい俳句になってしまうところ、主調はあくまでも葛の花を愛でる話なのであって、そのコントロールはとても難しい。私のような素人がやれば、ベタベタになってしまうか、遠すぎてなんだかわからない俳句になってしまいそう。


(句帳から)

車道から歩道へ溢れ秋出水
いやでもと言いかけてやめ秋暑し
秋麗や電車カーブを曲がり終へ

第99回深夜句会(7/14) [俳句]

(選句用紙から)

日曜の青蔦の髭跳ねてをり

季題「青蔦」で夏。フェンスでもブロック塀でも煉瓦の館でもいいが、なにも日曜でなくたって青蔦の蔓の先はくるりとはねているのだけど、それを間近でしっかり見据える時間と心の余裕は、日曜日でなければ得られない。
こういう鑑賞をすると、じゃあどんな季題でも「日曜の○○が…」となってしまうのかと問われそうだけれど、そうではなくて、ツタの蔓の先という小さな、そして誰も顧みない(同じ小さなものでも、植木鉢に播いた種子が発芽しました、というような風景なら、少なくとも播いた人がそれを見ている)ものに対して反応できる「季題へのまなざし」がそこにあるから、この句は成り立っている。

薬罐ごと浸してをりて麦茶かな

季題「麦茶」で夏。「薬罐ごと」が微妙で、大きなバケツにヤカンが浸されているように聞こえてしまう(そんなわけない)が、ヤカンをそのまま大きな急須のようにつかって、麦茶を浸出させている。どこの風景と断ってなくても、野球場とかグランドとか、そんな場所が想像される。


(句帳から)

目に見えて近づいてくる白雨かな
懲罰のやうに真夏の夜の雨
 

番町句会(7/8) [俳句]

5月は選句だけ、6月は欠席だったので久しぶりの出席。

(選句用紙から)

日覆のキッチンカーに小さき列

季題「日覆」で夏。公園の入り口などに、ワーゲンバスを改造したような車が停まって、飲み物やちょっとした食べ物なんかを売っている風景。車の横腹の、お客さんに相対するところには日覆い(シェード)が出せるようになっていて、そこに何人かが列をつくっている。
「日覆のキッチンカー」がちょっと窮屈なのが残念で、ここは単に「日覆や」でいいんではないかと。それで十分わかるのではないだろうか。
日覆という季題と、「小さき列」の組み合わせが絶妙。長い列だったらナンノコッチャになってしまう(その長い列のほうに一句の中心が行ってしまう)し、誰もいなかったら俳句にならないのだけど、数人が並んでいるこの風景が、夏の盛りの都会をよく描いている。
と同時に、この「日覆をそなえたキッチンカー」という存在自体が、20年前にはほとんどなかった(あったとしても、広く理解され鑑賞される状況ではなかった)し、20年後にはあるかどうかわからないものであって、俳句という文芸が結果的に(この「結果的に」という点は重要)時代の証言者というか、時代を描くことになることもまた重要ではないかと。

のびやかに曲りし胡瓜糠床へ

季題「胡瓜」。「のびやかに」と来るので、さあ何がのびやかになんだと思いながら待っていると、意表をついて「曲がりし」ときた。「のびやかに」「曲がりし」って一体なんだよと混乱したところで「胡瓜糠床へ」と正体が示されて、そこではじめて状況がわかる。
胡瓜の話と明かされれば、なるほど確かに「のびやかに」「曲がりし」は言いえて妙だなあ、というところ、この言葉の選びかたは、あまりあざとくやると、そのねらいが目立ちすぎて、読み手には違和感が先に立ってしまうものだが、この句にはそういうにおいはなく、その手前できちんと踏みとどまっている。


彼の人も酒でしくじり泥鰌鍋

季題「泥鰌」で夏。泥鰌鍋は、どじょうの泥臭さを消すために、ねぎだの何だのを大量にぶちこんでいただく庶民の料理と理解してよいと思うのだけど、そこで酒を飲みながら、今ここにはいない「彼の人」が酒で失敗した話をしている。
俳句でむずかしいものの筆頭は助詞「も」だと思っている。この句の「も」は「自分も酒でしくじったところ、彼の人も」の意味になろうが、軽い諧謔と悔恨の入り混じった風味を鑑賞するのは、簡単そうで簡単ではない。


(句帳から)

朝曇日ごとにビルを解体し
赤白の赤の滲める灸花
朝曇映りこんだるにはたづみ
青蔦の一直線の蔓の先

第98回深夜句会(6/16) [俳句]

あと2回で100回!

(選句用紙から)

カーテンのやうに降る雨梅雨深し

季題「梅雨」で夏。
梅雨末期の強い雨であろうか。風を伴って白い幕を下ろしたように降っている雨を「カーテンのやう」と叙したところに眼目がある。ひょっとするとどこかに類句があるのかもしれないが構わない。霧雨でもシトシト降る雨でもなく、カーテンのように移ろいながら強く降っている、というさまをイメージさせる強い力をもっている。

(句帳から)

ケチャップのにほひ流れて路地の夏
一人去りまた一人来て夜釣かな

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