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第115回深夜句会(12/21) [俳句]

年内あと10日というところで、ことし最後の深夜句会、気がつけばもう115回目。

(選句用紙から)

電飾の青の巻きつく冬木かな

季題「冬木」。ここでは葉が落ちた裸の木に、青色のLEDが多数巻きつけられた風景であろう。電球色とか白色でなく、寒さを強調する青い色の電飾を施し、寒々とした風情で立っているのだけど、生命感覚と縁遠い青の電飾が、あたかも蔦のように自律的に「巻きつく」という表現がこの句の生命。

鳥のこゑ点々とあり日向ぼこ

季題「日向ぼこり」で冬。鳥の姿が点々とあるのなら凡庸な一句だろうが、鳥の声が点々とある、というのだ。そうすると、目をつぶっていたとしても遠近上下左右のあちこちから声が聞こえる、ということから、ある程度広い庭とか公園のような場所であって、小さな庭に面したガラス戸の中とかではないことがわかる。そうした鳥の声に耳を傾けるぐらいの精神的余裕のある日向ぼこりである、ということも楽しめる句(切羽つまった日向ぼっこってあるのか、というツッコミは禁止する)。


(句帳から)

一区画を四つに割つて枯芙蓉
咳の子に小さな声で話しかけ

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第114回深夜句会(11/16) [俳句]

(選句用紙から)

自転車のわづかに残り虫の声

季題「虫の声」で秋。「わづかに残り」がいいですね。場所についてとやかく説明しなくても、駅や学校、工場などの「大きな自転車置場」であることは明らか。朝や昼間はたくさんの人が自転車をとめるので、虫の声なんか聞こえる余地がないのだけど、夜になって大半の利用者が帰ってしまい、自転車がまばらになると、敷地の中か外のどこかから、虫の声が聞こえてくる。


スナックの客の熊手の忘れ物

季題「熊手」で冬。ここでいう熊手は、落葉掃きにつかう実務的な熊手ではなくて、酉の市でもとめてきた縁起物の熊手であろう。詠み手はスナックの客。居合わせたほかの客が帰ってしまったあとをふと見ると、その客がさっき酉の市で買ってきて、お姉さんに自慢気に話していたその熊手が、忘れ物としてぽつんと残っている。
この句を楽しもうとすると、現在(2017年)における「スナック」という商売の世間的位置(大げさだが)を理解しないといけない。あまり思ったとおりのことを書くと、現にこの商売をされている方のご迷惑になってしまうのだけど、少なくとも、勤め人がこぞって足を運び、かわりばんこにマイクを握りしめ、棚にはオールドのボトルがずらっと並んでいるなどという風景は過去のものになりつつあるように思われ、そうした中でスナックに(少なくとも時々は)通っている詠み手と、顔はときどき見かけるけれども名前は知らないその客と、そのいずれもが、少々時代から取り残された存在であるところが、この句に味わいを与えている。

(句帳から)

アーケードの欠けたるところ冬の月
我慢して一層ひどく咳きこんで
荷物用エレベーターの聖樹かな

 
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番町句会(11/10) [俳句]

半年ぶり?いやそれ以上欠席が続いていたように思われ(自分のことについて「思われ」は変なのだけど、あまりに記憶が遠いので)、きょうは10人が参集。
きょうの席題は「柊の花」「鷹匠」。毎度のことだがうむむ。

(選句用紙から)

浜離宮へ晴れて鷹匠補となりて

季題「鷹匠(たかじょう)」で冬。鵜飼いを仕事とする鵜匠と同様に、鷹を育てて鷹狩りをするのだけど、宮内庁にはいまでもそういう役職があるとかで、ここでいう「鷹匠補」というのはその役職のひとつなのであろう。どういう経緯でこの世界に入ったかわからないが、さまざまの苦労の末に「晴れて」鷹匠補という役職をいただき、そのお披露目だか発令式だかのために鷹を連れて浜離宮へおもむく、といった句意か。「晴れて」が冬の東京の晴れた空を連想させて好ましい。

飛び上がれば又その石に石たたき

季題「鶺鴒(せきれい=石たたき)」で秋。石たたきは鶺鴒の異名で、長い尾を振る様子が石をたたいているように見えるのでそのように呼ばれるそうだが、どこにでもいる鳥ではあるが、ここでは川原などで、ふと飛び上がった鶺鴒の着地点である大きな石に、すでに先客がいた。

(句帳から)

山茶花の咲き疲れたる小庭かな
肩車十一月の日曜日
鷹匠の終始無言でありしかな
 
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第113回深夜句会(10/26) [俳句]

急に寒くなったり暑くなったりする毎日。秋の句と冬の句が混在していても全然違和感なし。

(選句用紙から)

赤子ゐる車両ことこと秋日和

「電車」でなく「車両」というと、列車全体のなかのある一両、という意味になるので(その前に、バスやタクシーやリヤカーも「車両」なのだけど、ここはまず電車の話ととった)、前後にほかの車両がいるかもしれないし、いないかもしれないが、その一両のどこかに、ベビーカーかだっこ紐かで親に連れられて、赤ん坊がひとり乗り合わせている。赤子が目覚めているのか眠っているのかはわからないが、電車はことことと音を立てながら進んでいく。窓を通じて赤子にも日差しがふりそそぎ、さらにその電車全体にも、外側から見れば秋の日差しがあたっているであろう、という多幸感にあふれた一句。「ことこと」が気になるといえば気になるが、許容範囲か。

蓑虫の糸ひとすぢにしたたかに

季題「蓑虫」で秋。虚子に「蓑虫の父よと鳴きて母も無し」の句があるが、その姿が哀れを誘う虫でもある(こどもの悪戯のターゲットになりやすい虫だが、最近あまり見かける機会がないのはどうしたことか)。しかしこの句に出てくる蓑虫は、同じように糸をひいてぶら下がってはいるが、作者には「したたかに」守りを固めているように見える。これもまた、観察から得られる着想であって、お約束に陥らないために必要なことだと思う。「ひとすじにしたたかに」のたたみ掛けも巧み。

(句帳から)

秋の暮自転車が過ぎ影が過ぎ
グランドのこちら側だけ秋の霜
校舎の裏講堂の裏刈田かな

 
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第112回深夜句会(9/28) [俳句]

急に寒くなる。秋の雨も降っている。

(選句用紙から)

秋の日のゴミか何かの白きもの

人によっては「ゴミか何かの」が口語的に過ぎると感じられるだろうけれども、この措辞は、あえて何であるかを特定しないまま「白きもの」とだけ言っておいて、それが秋の日の庭先だか道端だかに落ちている、という面白さにある。秋だから白、というだけでは単なるお約束なのだけど、この句では、なんだかわからないその白いものが、秋の色として提示されている。芭蕉が「石山の石より白し秋の風」(秋)、「海暮れて鴨の声ほのかに白し」(冬)のように風や声に色を見出したのとは違った面白さ。

かなかなの爪先立つてゐるやうな

ひぐらし(かなかな)の姿を詠んでいるようにも、また鳴き声を詠んでいるようにも感じられる。後者なら、ひとしきり鳴いて、デクレシェンドかつリタルダンドして鳴きやむ感じを「爪先立って」と叙したものだろう。

(句帳から)

落し水鳥海山に羊雲
実のやうなものこぼれ落ち葉鶏頭
来ては去りまた来ては去る小鳥かな
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第111回深夜句会(8/24) [俳句]

そう広くはない喫茶店で、句会のためにテーブルを占拠するのだけど、人数によってはテーブルの確保がたいへん。まあでも忙しい勤め人のための句会なので、みなさんギリギリで会社を抜け出してくるわけだから、2人しか来ないこともあれば10人来られる時もあるのは当然のなりゆきで、お店を貸しきらないかぎり根本的な対策にはならない。

(選句用紙から)

油彩画の光を止め丸茄子

茄子がいちめんにつやつやしている感じを「油彩画の光」と序したところがこの句の手柄。油彩画の光って具体的にはどんな感じなのかと尋ねられると(油絵具をいじったことがないので)ちゃんと説明できないのだけど、厚塗りの紫色の絵の具の表面がテカッているような感じか。確かに、あのテカテカを見ていると、野菜というよりなにかの人工物のように見える。

カフェあるといふ此の霧の森の奥

季題「霧」で秋。道の奥でなく「森の奥」といっているので、森の奥につづく細い道があって、そこを歩いていくとカフェがあるのだそうだ、さてそのカフェはどんなカフェなのだろう(お客も食材も、この細い道を通って徒歩で運ばれるのだろう)ということになる。もちろんいま立っている森の入り口からは、カフェは見えない。シューマンの「森の情景」のような一句。

(句帳から)

クレーンのゆつくり動く残暑かな
掃苔や遺恨といふにあらざれど
割箸の脚の不揃ひ瓜の馬
夕さればかなかなかなと裏の木戸

  
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第110回深夜句会(7/13) [俳句]

(選句用紙から)

重さうな車掌の鞄朝曇

季題「朝曇」で夏。通学の鞄とか通勤の鞄って色も形も大きさもさまざまだが、しかし中に何を入れるかは、持ち運ぶ人に委ねられているのが普通だろう。しかし車掌の鞄は、あれは業務上必要なもの(マニュアルとか、非常時の装備品とか)が必要な範囲で詰め込まれているはずで、まさかあの中に文庫本とかペットボトルは入ってはいないだろう。乗務している限りそれを携帯しなければならないというのは、お仕事とはいえ、この夏の暑さのなかではたいへんなことで、それが「朝曇」という季題をよく言い表している。

感想戦で「重そうな」について質疑。「重さうな」だと外から車掌の鞄に視線が注がれていて、視線を注いでいる作者がやや前景化するのだけど、むしろ「重からん」として車掌の側から鞄を見るようにさせたらどうだろうかと。なるほど。私は「重たげに」を思いついた。

かたつぶり塵もろともに掃かれけり

季題「かたつむり」で夏。庭とか路地のようなところであろうか。竹箒で掃き掃除をしていたら、葉っぱとか小石とかに混じって、そこにいたかたつむりも根こそぎ掃き出してしまった。
これも感想戦で、「もろともに」について質疑。「もろともに」だと、掃き出している竹箒の動作が強調されてかたつむりが一句の中心にこないのに対して、「塵にまじりて」なら、掃き出されたもろもろのものごとの中に入り混じっているかたつむりの様子がよりよく描けるのではないかと。確かに「もろともに」は非常に強い言葉なので、一網打尽で大きな動きとして強調されることになるから、かたつむりへの視線を保つためには、一見地味に見える「塵にまじりて」が支持されるかもしれない。

こういう議論が交わせるためには、参加者の言語感覚がある一定以上に研ぎ澄まされていなければいけないわけで、たとえ自分はその最後尾にいるとしても、この句会はありがたい存在。

(句帳から)

大西日横断歩道てらてらと

 

第109回深夜句会(6/22) [俳句]

深夜句会では、披講の前に参加者が自分の選句から一句評をするのだけど、それを聞いていると、その人が一句のどこを見ているかの視点に気づかされ、勉強になる。披講のあとの感想戦(?)もそれと同じで、ここはAでなくBのような表現がとれなかったか、Bを採ると一句として何がどう違ってくるか、といったことを俳人同士が話し合う機会ってあまりないので、たいへん貴重な機会。

(選句用紙から)

駅の端のカフェの端にて麦酒酌む

季題「麦酒」で夏。駅の「は」の、と読んでしまいそうだが、カフェの「はし」にて、と読むからには、駅の「はし」の、と字余りにするのだろう。大きな駅のはじっこにカフェがあって、そのまた端のほうの席に座って、おそらく一人で麦酒を飲んでいるという図。「駅の端のカフェ」って何だといわれそうだけど、欧州の大きなターミナル駅なんかで、あまり使われていないような場所にカフェがあるのはよく見かける風景。改札がないので、列車を利用する人だけでなく、そのへんを歩いている人がふらっと入ってコーヒーをぱっと飲んで出て行ったりするのだけど、外国出張かなにかでそんな店に入って、知り合いがいるわけもないので、端の席にぽつんと一人で飲んでいる感じはよく伝わる。
感想戦で、ここは「酌む」とすると一人なのか二人以上なのかぼやけてしまうので、「飲む」でいいんじゃないかと。なるほどそう思う。

緑蔭の道のいづこへ続くなる

季題「緑蔭」で夏。木下闇なんていうことばもあるが、木かげの薄くらがりに、踏みあとのような道がある(どのような道であるか明示されていないが、立派な舗装道路なら「どこへ続いているのか」という疑問も生じようがないので、立派な道ではないものとして読んだ)。続くともなく木かげを続いていくその道は、さてどこまで続いているのだろうか。公園の端までか、森を抜けて隣の村までか…「いづこへ続く」に詩情があるのだけど、下五を「かな」とせず、「なる<なり」(=○○であることよ)として、「いづこへ続く」にかぶせて終わらせるところが見事。
(?いま思いついたのだが、この「なる」は、「小諸なる古城のほとり」の「なる」と同様、存在の判断をあらわす「なる」で、「道」を修飾しているようにも読める。どちらなのだろう。)

(句帳から)

内側がひどく汚れて夏帽子
うすみどり色のジャケット着て素足

 

第108回深夜句会(5/11) [俳句]

(選句用紙から)

夜濯の終了音やハイツM

季題「夜濯」で夏。もともとは、夏の日中の暑さを避けて、夜になってから洗濯をすることが季題として詠われる。洗濯機なら人がついていなくてもいいから、一日中いつでも回せるのだけど、それでも夜になっていくぶん涼しくなってから洗濯機を回しにかかるという風情はわかるというもの。
で、「終了音」なので全自動洗濯機の洗濯+脱水が終わってピーという音が響いているのだけど、それが聞こえるということは、この「ハイツM」の共用廊下だかベランダだかに、各住戸の入居者の洗濯機が並んでいる風景が想像されるのですね。もう少しいうと、洗濯機置き場は住戸の中にあるのが当節の主流なので、このハイツMは、学生向けの小さなアパートか、かなり古典的なアパートであることも想像され、その「ピー」は、隣の住戸にもその隣の住戸にも、聞こえているわけだ。

薄く濃く新茶の袋皆緑

季題「新茶」で夏。新茶じたいではなく、新茶を入れて売られているアルミ包装のような袋が、どれも「みな」緑色をしていた。それがどうしたのと言われそうだけど、パッケージを考えた葉茶屋さんが、いろいろ考えた末なのか、無造作にした選択なのか、新茶の緑色を選んでいることが面白い。

蝶々のふらついてゐてぶつからず

季題「蝶」で春。「ふらついてゐ」て、でも「ぶつから」ないのは、複数いる蝶々が相互にぶつからないのか、それとも蝶々がフェンスや柵にぶつからないのか定かでないが、蝶の独特な飛び方―予測不可能なあの飛び方―を、説明に陥ることなく、描けていると思う。

(句帳から)

花茨小学校の先に海
街薄暑三車線づつ渡り終へ



番町句会(4/14) [俳句]

締切時間を15分超過して会場に到着(移動中に遅参を連絡し、特段の思し召しで待っていただいている)し、会衆のみなさまが既に投句を終えて見守る中、兼題「春の蠅」に脊髄反射で必死に対応。将棋早指し選手権のようだ。

20170414.JPG

(選句用紙から)

遠くあり近くありして春の雲

これ、私なら「遠くなり近くなりして」とやってしまうことが確実。「遠くあり近くあり」って、一見何でもないようだけど、なかなかできない、すばらしい表現。雲が(または自分が)動いているのでなく、遠くにも近くにも雲があります、と言っているわけだ。比較的ゆっくり動いているか、ほぼ静止しているのだろう。このたゆたう感じが、まさに春の雲なのですね。もっとも、「凍雲」なんていう季題もあって、冬の雲もじっと動かないことがあるにはあるけれど。

どの川も富士の雪解や音高き

季題「雪解け」で春(早春)。富士の山麓では、4月でも雪解水がごうごうと流れているのだろう。どの川「も」ということは、大河に沿ってではなくて、小さな流れをいくつも越えて、等高線に沿うようにして裾野を歩いているのだろうか。


(句帳から)

ガラス戸の内側にゐる春の蠅
制服に手が生え足が生え四月
小径を麓へたどり春深し

冬はどこへ行った? [俳句]

光が丘のIMAホールへ行く道すがら、地図を眺めていてふと気付いた。

光が丘地区に「春の風小学校」「夏の雲小学校」「秋の陽小学校」という名前の小学校があるのだけど、なぜか「冬の○小学校」だけがないのだ。その代わり?なのか「四季の香小学校」というのがある。

hikarigaoka_map.png

なんだこれは。
春、夏、秋ときたら当然冬じゃないのか。
練馬区教育委員会が、冬は小学生にふさわしくないと考えたのだろうか…電話して聞いてみようか…

と思いながらもう少し地図を眺めていると、それぞれの小学校と同じ名前の公園が近くにあるので、どうやら、「地名がそうなっているので、それに合わせて小学校の名前もつけちゃった」みたいだ。
(ちなみに、練馬区のウェブサイトを見てみたら、この4校はもともと8校あった小学校を統合再編して2010年に開校した模様で、それまでは単に「第1小学校」から「第8小学校」だったらしい)

そうすると、この疑問を解くには、光が丘地区が米軍から返還された当時、どうしてこの(冬のない)地名を創設したのかを調べないといけないのだけど、ちょっと難しそう。練馬区の図書館とかにいけば調べられるのかな。

この気持ち悪さを掘り下げて考えると、原因は二つあって、
 ・冬がないことの気持ち悪さ(冬が排除されているように見えることへの腹立たしさ)
 ・春・夏・秋・四季という並びの気持ち悪さ(MBA風にいえば、MECEでないことの気持ち悪さ)
ではないかと。

余談だが、冬にちなんだ小学校の名前を考えるとしたら何がいいか。ここは俳人の腕の見せ所なのだけど
 ・冬の星小学校
 ・冬の晴小学校
 ・冬の森小学校
なんかどうでしょう。

 

第107回深夜句会(4/13) [俳句]

初めて参加される若い男性が、「この句会が生まれて初めて参加する句会」だとおっしゃるので、会衆一同大歓迎。自分の「はじめての句会」っていつだったのだろう。1980年の秋から冬にかけてのどこかだと思うのだけど、記録もないし、もう全然覚えていない。こんなに長く俳句を続けるとは思ってもみなかった。

(選句用紙から)

桃色の少し差したる桃の花

うぐいすを見て「うぐいす餅の色だね」と言うジョーク(?)があるけど、桃の花―ここでは白い花なんだろう―をよく見ると、そこにうっすらと桃色が差している。ここでは虚子の「白牡丹といふといえども紅ほのか」が連想されるが、白い花といってもかすかに赤みがかっていて、その赤の色が他ならぬ桃色だ、というのは、眼前の事実であるので、言葉遊びのみに陥ることをまぬかれている。

焦げ目よし花の餃子と云うべしや

季題「花」で春…ということになろう。花の宴とか花見酒とはいうが、花の餃子って何なのということだが、花見に誰かが持ってきた焼き餃子の焦げ目を見て、参加者がたわむれに「これぞ花の餃子だ」などと言い合っているのだろう。「焦げ目よし」の藪から棒加減も、たわむれにそう言っていることを示しているのだろう。「云うべしや」の「べし」は適当(そのように言いなすのがよい)の「べし」であろうか。

(句帳から)

春の星いただいてをる山地かな
ゆでこぼしながら低唱春深し




第106回深夜句会(3/23) [俳句]

(選句用紙から)

瀬の中の小さき淵や春の水

まだ上流の、歩いたり走ったりしている川なのだろうが、そのたぎる瀬のなかの、ある一部分が、そこだけ傾斜が緩いのか、水が比較的静かでなめらかに移ろっている。それを「瀬のなかの淵」と切り取ってきたところにこの句の眼目がある。またその「小さき淵」に移ろっている水の色や、映り込んでいる空の色なども想像されて、率直にいい句だなあと思う。


夜を徹して読了したる辛夷かな

季題「辛夷」で春。手紙とか訴状だと、さすがに夜を徹して読むほど長くはないだろうから、まあ小説であろうか。明日の用事に差し支えるから途中でやめて寝なくちゃと思いながら、とうとう朝までかかって全部読んでしまった。そこで寝床にもぐりこむのか、それとも支度して出かけるのかわからないが、そうしている視線の先に、ふと辛夷の白い花がちらちらしているのが見えた。朝の光を受けて白く揺れている辛夷の花が、さきほどまで夜を徹して読んでいたものの内容との差において、視覚的にそうである以上に心理的にまぶしく感じられた。
「読了したる」の後で切れるのだけど、下五が「かな」で終わっているので、やや落ち着かない。他にうまい言い方があるのかもしれない。


(句帳から)

うららかや電車並走してゐたる
入園式のご案内貼り冷蔵庫
シースルーエレベーターの日永かな

 

番町句会(3/10) [俳句]

きょうのお題は「苗木市」。
これが難しいのは、あまり実景に接したことがないから。

(選句用紙から)

灯籠に寄りかからせて苗木市

季題「苗木市」で春。寺社の門前とか境内なので、手ごろな場所に「灯篭」があるわけだが、その灯篭に寄りかからせるようにして、すこし背の高い苗木が売られている。根元が鉢でなく、丸くつつまれていて、また、そこそこ背が高い苗木であるから「寄りかからせる」ことになるわけで、そんな無造作に置かれている苗木の様子がわかる。

乗り継ぎを待つ空港の日永かな

季題「日永」で春。乗り継ぎ便を待つ間、小さな空港だと何もすることがない。海外での乗り継ぎなんかだと、ことばもわからないし時間つぶしのネタもないしでいっそう手持ちぶさたになる。ガラス張りの向こうには、空港のさまざまな車両や施設が見えるが、それらにも春の日が当たっている。日ごろあわただしい人ほど、乗り継ぎの手持ちぶさた感が強いのではないかと思うが、それに「日永」という季題がよく調和している。

飯場にもクロネコの来て日永かな

PCな日本語だと「作業員宿舎」になるのだろうか。そこへ宅急便のトラックがやってきて、また去っていった。ただそれだけなのだけど、「住宅」でも「商店」でも「会社」でもない寄宿舎のような場所に、宅急便のトラックがやってきて生活上必要なものを置いて帰っていく、という発見(発見とまでいえないかもしれないが)がこの句の眼目。ただ、「も」が散文的で、他の言い方がなかったか検討の余地がありそうな。


(句帳から)

駅までのシャッター通り苗木売る
月朧イギリス大使館の庭
春宵や角のビストロまず灯り
→まづ灯り

  

第105回深夜句会(2/23) [俳句]

(選句用紙から)

月朧マクドナルドのMが見え

季題「朧(月)」で春。ここでマクドナルドのMとは、都心のビルの中でなく、郊外のロードサイドなんかにある店舗で、車から見えるようにポールの上に掲げられているのではないかと。
で、あのMの文字は黄色で描かれているのだけど、その背後にある春の夜空には、やはり朦朧と春の月がかかっている。

電子レンジのともるも春の灯なる

電子レンジが回っているときに中を照らす電球は、むろん一年中同じように動作しているのだけど、いささか頼りないこの電球も、街灯や家のあかりと同様、また春灯であるなぁと感じられた。秋とか冬(寒灯)だと電子レンジの灯りには結びつきにくいので、季題の選択はこれでいいのだと思う。


(句帳から)

逃げ遅れて死ぬる話や山焼く火

夏潮新年会(2/19) [俳句]

ことしの選句用紙は79枚。
全部回すのも大変だけど、しかし今日は、すっと乗れる句が多くて楽しい句会だった。

(選句用紙から)

浅春の水の面のちぢみ皺

季題「春浅し」で早春。海なのか川なのか湖なのか池なのかは詠われていないのだけど、水面のわずかなさざ波について「ちぢみ皺」と叙したところが眼目。この句は違うと思うのだけれど、よく晴れた日に飛行機から瀬戸内海の海面なんかを見ていると、本当にこの感じはよくわかる。じゃあなんで「浅春」なの、という疑問が当然に浮かぶところで、むしろ早春は春一番とか東風が吹きまくったりして、波高しな日も多いと思うのだけど、日によっては、それまでの冬と違った穏やかな日があって、そんな日にはようやく春が来たと思うこともまた事実で、そんな日に詠まれた句なのではないかと。

温む濠船河原町遠からず

これはちょっと事情を知らないと選べないのだけど、『夏潮』誌の役割のひとつが虚子研究であるとすれば、かつて虚子が『ホトトギス』発行所をおいていた(丸ビルに移る前の発行所)は市谷船河原町つまりお濠の北側にあって、この句会場のちょうどトイ面ですね、というのがあって、堀端の風景が昔と変わらないのであれば、虚子もこんな風景の中を行き来していたのだろうか、ということまで思い浮かぶところ。ちなみに市谷船河原町はいまでも住居表示になっていないので、そのままの地名が使われている。

戦没馬慰霊塔みかんを一つ

季題「みかん」で冬。靖国神社にそういう慰霊塔があるのでしょう。中七と下五がわたっているが、それほど妙な感じはしない。みかん「が」一つじゃなくて、みかん「を」一つ、というところに、理不尽な死をとげた馬匹への愛情が感じられて、しかし過度にベタベタしていなくて、よいですね。

(句帳から)

浅き春飛行機雲のとぎれとぎれ
黒髪に茶色の髪に春日さす
濠端のわずかな斜面下萌ゆる
花ミモザから灯台へつづく道
雨樋のあのあたりから囀れる

番町句会(1/13) [俳句]

きょうの席題は「水仙」と「双六」。

(選句用紙から)

カーテンに影のよぎりて初烏

季題「初烏」で新年。「影のよぎりて」がなんとなく落ち着かない。「影のよぎれる」か「影がよぎりて」か。影「が」はちょっと無理っぽいので、やはり「影のよぎれる」でしょう。
元日の朝、外が明るくなってきたところで、寝室のカーテンにふと烏の影がさっと横切った。姿を見ているわけではないのだけど、けっこう大きな羽音がするから、それで気づいたのかもしれない。特にうたわれてはいないが、影がよぎるのだから、いい天気なのですね。

大手町の玻璃の水色日脚伸ぶ

季題「日脚伸ぶ」で冬(晩冬)。上五「大手町」とせず、あえて「大手町の」と字余りにして「玻璃の」につなげていく。ここではビルの壁面のガラスに空が映っているのだろう。その空が、ついひと月前なら16時半にはまっくらになっていたのが、いまでは17時でも水色の空として映っている。空が水色だ、と詠うかわりに、ビルのガラスに映っている空が水色である、としたところに小さな詩情がある。

(句帳から)

崖下の資材置場の飾かな
冬ぬくし車庫から電車出払つて
噛み合うてをらぬ会話も初電話
すこしづつ青味が増して初御空
→青味の増して

第104回深夜句会(1/12) [俳句]

初句会。
新しい職場を得て関西へ帰られる俳友の送別句会ともなった。

(選句用紙から)

疾走はみな美しく嫁が君

季題「嫁が君」で新年。家屋のねずみがいなくなったわけではないのだけど、こういう言い換え表現は、失われつつあることばのひとつかもしれない。句評では、「みな」が余計との意見があり、なるほどと感じる。「みな」と一般化する必要はなく、目の前にあるその疾走そのものを「美しきかな」としたほうがいいわけですね。


気味悪きひとりわらひの初笑

季題「初笑」で新年。自の句か他の句か判然としないのだけど―自の句であれば、さらに気味悪さが増幅されるのだけど―、この句の眼目は、多くの俳人が無意識に避けるであろう「気味悪き」という措辞をためらいなく使っているところにある。自分も含めて、「気味悪い」ことを眼前のどんな事実を通じて表現するかに心を砕くわけだけど、いきなり「気味悪き」とくる大胆さ。

恋人がゐても缶コーヒー大事

季題「缶コーヒー」で(無理やり)冬。句評でみんなから「これは無季でしょう!」と言われてしまったが、あえて冬の季題として鑑賞すると、なかなか味わい深い句ではないかと。とても寒い日で、恋人がそばにいるのだけど、買ったばかりの熱い缶コーヒーを両手で―手袋をしているのかもしれない―大事そうにかかえている。

(句帳から)

タラップをつぎつぎ降りる皮衣

第103回深夜句会(12/15) [俳句]

(選句用紙から)

照るはうへ明るいはうへ浮寝鳥
季題「浮寝鳥」で冬。海や湖沼や川に浮かんで冬を過ごしている水鳥のこと。
その浮寝鳥が、ぷかぷか浮かびながら、少しずつ日がさして明るいほうへ移ろって集まっている。それ以上の説明はないのだけど、水面に明るいところと暗いところがあるということからして、例えば、川の上に高速道路の高架がかかっていて、ある部分だけが明るくなっている風景などが想像される。それでなくても寒い冬の川にたむろしている鳥が、その中の明るい、暖かいところへ少しずつ群れ集まっている様子を考えると、その浮寝鳥の心持なども感じられて、温かな一句。

荷台より新聞卸し息白し
季題「息白し」で冬。夜遅く、新聞販売店の前にトラックが止まると、待ち受けていた店員が次々にトラックの荷台から新聞を販売店に運び込む。夜の道路で作業をするその息が、販売店からの光を受けて白く光っている。冬の夜遅く、商店街の中でそこだけが明るくなっている風景。
ここで「卸し」としたのは、各戸へ配達するバイクや自転車ではなく、販売店へ運んでくるトラックであることを明確にするためと思われるが、バイクなら殊更に「荷台からおろす」とは言わないので、普通に「下ろし」で十分通じるように思う。

(句帳から)

絵に描いたやうなおでん屋路地の奥

番町句会(12/9) [俳句]

(清記用紙から)

猫はもの言はぬがよけれ漱石忌

季題「漱石忌」で冬(12月)。「吾輩は猫である」は猫がさまざまな独白をする物語だけど、実際に飼い猫がしゃべることができたなら、うっとうしくてたまらないだろう。この句が多くの票をあつめたのは、この「もの言はぬがよけれ」への共感と思われるところ。

英国とも交へし干戈漱石忌

漱石は英文学者としてロンドンに留学したりもしていて、そこでさまざまなエピソードも生まれてきたのだけれど、時期としては日露戦争の直前にあたる。それから40年もしないうちに、日本はイギリスとも戦火をまじえたのだった。英国と「も」とわざわざ言う必要があるか、考えるところ。「アメリカと戦争をしたのだけれど、漱石が留学していたその英国とも戦ったのだった」という句意になるのだろう。また、「英国と」だと、一句の中心が上五中七に傾いてしまい、漱石忌がどこかへ行ってしまうという配慮かもしれない。

(句帳から)

冬の影曳いて二台のベビーカー
ポプラ一列冬野と冬野隔てたる
一時間半も歩いて狩の宿
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