So-net無料ブログ作成

第120回深夜句会(5/17) [俳句]

IMG_2514.jpg

(選句用紙から)

耕運機の跡の斜めに代田かな

季題「代田」で夏。まだ苗を植える前の、水を張った田んぼに、それとわかる程度に耕運機の跡が盛り上がっている。なにげなく読むと「ふーん」で終わってしまうのだけど、耕運機の跡が盛り上がるのは、耕地の形が不整形で、耕運機がしばしば方向転換を強いられるからであることを思うと、「そういう田んぼが連なっている風景」が思い出される。

遠足の子をかきわけて降りにけり

季題「遠足」で夏。朝の通勤電車から下りようとすると、その駅から乗り込もうとする幼稚園児か保育園児が先生に連れられておそろいの帽子で、勢いよく乗り込んでくる。おいおい下りる方が先でしょ、と苦笑しつつも、「かきわけて」下りたのだった、という句。東京近辺でも、朝のホームに整列して、何本かあとの電車を待っている風景をよく見かける。

(句帳から)

順番に離陸してゆく夏霞
nice!(0)  コメント(0) 

番町句会(5/11) [俳句]

きのうまでの寒さから一転して、汗ばむ陽気。体がついていかない。

(選句用紙から)

二坪に満たぬ畑や麦の秋

どんな畑なのですかね。麦を植えていることからして、家庭菜園とかではないとすると、道路際とか斜面とかで、わずかな場所で一区画になっている畑(道路の拡張工事なんかで、もっと大きな田畑だったのが不自然な形の小さな区画になってしまっているような場所)であろうか。
その「二坪にも満たない」小さな畑に、全体が持ち上がるようにして麦が薄茶色に稔っている。小さな区画であるだけに、その立体感ともいうべきものが明瞭に感じられる。

春の雲風に押されて北へ北へ

南から北に風が吹いているのだろうか。「北へ北へ」という散文的な表現が一句の眼目でもあり、人によっては採れない理由でもあろう。「春の雲」にありがちなイメージとはちょっと違って、急速に吹き流されている雲の様子。

(句帳から)

十薬の蘂ことごとく上向きに
薔薇色の薔薇といふほかなき真紅
野茨の花の白さや校舎跡
蔓薔薇の白の濃淡連なれる

nice!(0)  コメント(0) 

第119回深夜句会(4/19) [俳句]

投句を準備するため「マメヒコ」でお茶をいただきながら掲示物を見ていてびっくり。宇田川町店(旧渋谷店)が6月末で閉店するという。これはたいへん残念。

(選句用紙から)

朝寝しておからを口に含みけり

春の休日の至福。ゆうべの残りのおからであろうか。なんだったら、朝からすこし酒をいただいてもいいぐらいの気分。夏や冬は論外だし、秋よりも春のほうが「はまる」ので、季題が動かないことにも感心する。

裏山のシンボルの木の蔦若葉

季題「蔦若葉」で春。
家か学校か、勤め先なのか、その背後に「裏山」といえるような起伏があって、さらにその「裏山」に、シンボルと目される大きな木が植わっている。で、そのシンボルの木がどうなったかと思いながら読んでいくと、その木に蔦が巻きついていて、それが一斉に若葉を生やしているという一句。木はまだ芽吹いていないのか、それとも常緑樹なのかは定かでないが、ともかくシンボルツリーの蔦若葉だという。一見、それがどうしたのと言われそうだが、作者と「シンボルの木」のあいだに、ちょうど蔦若葉が見て取れるぐらいの距離があること、また「シンボルの木」が認知されるような共同体の存在など、背景から汲みだせることは多い。

わが猫の一匹をらず月朧

季題「朧月」で春。
帰宅してみると、何匹かの飼い猫のうちの一匹が見当たらない。外は朧月夜。さてどこでどうしているのか、ちょっと心配しつつも、外でデートを楽しんでいるのかとも思ったりする。人によっては「月朧」がつきすぎと感じられるかもしれないが、私にはほどよいファンタジー風味(ここでほどよいとは、狙ってそうしたものではなく、結果としてそう感じられるという意味)で好ましく思われる。

(句帳から)

高尾行河口湖行山笑ふ
nice!(0)  コメント(0) 

第118回深夜句会(3/22) [俳句]

(選句用紙から)

味噌汁の匂うてきたる春の寺

ほろほろとおからをこぼす春ともし

椿咲きまた椿咲き落椿

(句帳から)

祖母と母住んでゐた家桃の花
バス停の前の畳屋春の昼
げんげ田の中を片側三車線



nice!(0)  コメント(0) 

第117回深夜句会(2/22) [俳句]

(選句用紙から)

料峭の公園に人来ては去る

季題「料峭」で早春。春寒しとも。真冬でなく春なので遊びに来る子もいるのだけど、ほんとうに暖かいわけではないので、すぐまたいなくなってしまう、と書くと理屈に陥ってしまうのだけど、ここでは、ずっとその公園(または隣接した場所)にいる作者の視点―なぜそこにいるかは示されていないのだけど―を好ましく感じる。

町騒の内にうするる薄氷

季題「薄氷」で春。薄氷が「うするる」ってどうなの、と言われそうだが、町のさまざまな喧騒のなかで、顧みられることもなく形を消していく薄氷を描いて過不足ない。


(句帳から)

比良八荒二両の電車往けるかな
畦道の先耕してゐるにほひ
 


 
nice!(0)  コメント(0) 

第116回深夜句会(1/18) [俳句]

(選句用紙から)

鍵盤の沈めば響く冬館

季題は一応「冬館」で冬。「夏館」ほど定着しているのか微妙な季題だが、冬らしく設えたり備えたりした邸宅と読むのだろう。その冬館にオルガンかチェンバロかピアノか、鍵盤楽器が備え置かれていて、それが弾かれると、館内によく響く。室内に充満している冬の空気感とか、固い床板の冷たい感じとかが「響く」から連想され、そうすると冬館自体も、たとえば牧師館のような建物であろうかと想像される。楽器を「弾く」といわず、鍵盤が「沈む」としたところがよいのだろう。ただ、「沈めば」だと自然に沈んだようにも読める。くどく言えば鍵盤を「沈めたので」となるところか。


雨粒の細かく砕け寒の雨

季題「寒の雨」で冬。雨粒が細かく砕けているのは当たり前のように読めてしまいがちだが、この句では霧雨のような細かい雨をさしているのではないかと。厳寒の日々に降る雨ではあっても、必ずしも大粒でたたきつけるような雨ばかりでなく、細かく静かに降る雨もまた「寒の雨」である。


味噌汁に冬菜の色の濃くありて

季題「冬菜」で冬。味噌汁の鍋に入っている冬菜(白菜、小松菜、壬生菜など)が色濃く感じられる。万物枯れ果てたこの時季に、ふと目に留まった生命感。


(句帳から)

風花や湖にある船着場


nice!(0)  コメント(0) 

上田信治句集『リボン』(2017、邑書林)を読む [俳句]

上田信治さんから、句集『リボン』をご恵贈いただく。ありがとうございます。

あとがきによると「この句集は六つの章に分かれています。ざっくりとした書き方の違いで、分けました。」とあって、実際さまざまな手法が試みられているのだけど、ベースにある「上田ワールド」とでもいうべきものは、どの章でもそう違ってはいないように思われる。

吾亦紅ずいぶんとほくまでゆれる

季題「吾亦紅」で秋。吾亦紅が揺れている、という句はいくらもありそうに思うのだけど、「とほくまで」がこの句の眼目。「大きく」とか「左右に」とか言わないで、わざわざ「遠くまで」と述べることで、あたかも吾亦紅がいまいる場所を遠く離れてまで揺れているかのような錯覚を覚えたり、そこまでいかなくあても「あっちのほうまで」揺れているという距離感が楽しめる。
また、吾亦紅は丈の低い草なので、「とほくまで」というと、作者の視点が草の高さと同じところにあることも感じられる。

水よりも汚れていたる氷かな

季題「氷」で冬。冬の川なのか池なのか、全部凍ってはいなくて、水面がのぞいているのだけど、その氷の部分が存外きたない。動いている水のときには気にもとめなかった濁りや浮遊物などが、いったん氷として固定されたとたんに、色や形としてまがまがしく目についてしまう。
氷は透明できれいなもの、というお約束があるとすれば、そういうお約束から遠く離れて、ただ眼前の事実として描くことで、氷の性状をよく言い得ている一句。

すぐそこに灯台のある葱畑

季題「葱(畑)」で冬。どういう葱畑なのかはわからないが、「すぐそこに」灯台があるというので、海が間近で、それも大都会ではなく灯台があるような地域だということになる。
葱畑の「すぐそこに」灯台があるので、畑のどこにいても灯台の白い壁面がどーんと視界に入ってくる。その白い壁と冬の青い空のコントラストがさらさらした感じで、葱畑の色と好対照。

ま上から見るガス工事冬の雨

「ま上から」がどこかは書かれていないが、歩道橋とかではなく、ビルの一室から見ているのだろう。そうすると、ビルが面しているその道路が掘り返されて、土の中からガス管が吊り上げられたり、新しいものが埋められたりしているのだけど、そこに冬の雨が降り注いでいる。その冬の雨のさむざむとした感じが、歩道を通りがかって見たときの風景から感じられるものとは違った意味で寒さとして感じられた、というところに眼目があるように思うし、読者の共感を得るのだと思う。

韮の花すこし歩けば沼だといふ

季題「韮の花」で秋。小さい白い花が初秋にいっぱい咲くのだけど、この句の場所はどんな場所なのだろう。すれ違う人が「ここからは見えないけど、このすこし先に沼がありますよ」と教えてくれたということから、国道とか県道というより、公園の散策路とか山道のような場所であろうか。近くに沼があるような水辺の森か野原を歩いている作者の立ち位置が、何も説明しなくてよく描いている。下五の字余り「といふ」も、他者の存在を強調していて効果的。




nice!(0)  コメント(0) 

番町句会(1/12) [俳句]

(選句用紙から)

寒の雨湛へ佛足石閑か

季題「寒の雨」で冬。寒中に降る雨。
もっとも寒い季節に降る雨が、お寺の境内であろうか、仏足石(石に刻まれた釈迦の足跡)にうっすらとたまっている。その仏足石も、降り注ぐ雨も、寺院の境内全体も、「閑か」だというのである。真夏や台風の激しい雨とは違う、静かに降り続く雨と、それを受け止めている静かな寺院の風景。

冬ざれの苑に娘と二人で来

季題「冬ざれ」。
春や秋には薔薇や桜が咲き誇って多くの人が訪れる庭園も、冬には花も乏しく、彩りにも欠けて人影もまばらになる。その庭園に、きょうは娘と二人でやってきた。父と娘でも母と娘でもいいのだけど、冬ざれという季題からは、父と娘が言葉すくなに時々やりとりをしている様子などが想像される。虚子の「我一語彼一語秋深みかも」(六百五十句)を思わせる一句。

(句帳から)

蝋梅をバケツに活けてブックカフェ
五叉路から車つぎつぎ春近し
かんじきの結はえられたるリュックかな

 
nice!(0)  コメント(0) 

第115回深夜句会(12/21) [俳句]

年内あと10日というところで、ことし最後の深夜句会、気がつけばもう115回目。

(選句用紙から)

電飾の青の巻きつく冬木かな

季題「冬木」。ここでは葉が落ちた裸の木に、青色のLEDが多数巻きつけられた風景であろう。電球色とか白色でなく、寒さを強調する青い色の電飾を施し、寒々とした風情で立っているのだけど、生命感覚と縁遠い青の電飾が、あたかも蔦のように自律的に「巻きつく」という表現がこの句の生命。

鳥のこゑ点々とあり日向ぼこ

季題「日向ぼこり」で冬。鳥の姿が点々とあるのなら凡庸な一句だろうが、鳥の声が点々とある、というのだ。そうすると、目をつぶっていたとしても遠近上下左右のあちこちから声が聞こえる、ということから、ある程度広い庭とか公園のような場所であって、小さな庭に面したガラス戸の中とかではないことがわかる。そうした鳥の声に耳を傾けるぐらいの精神的余裕のある日向ぼこりである、ということも楽しめる句(切羽つまった日向ぼっこってあるのか、というツッコミは禁止する)。


(句帳から)

一区画を四つに割つて枯芙蓉
咳の子に小さな声で話しかけ

nice!(0)  コメント(0) 

第114回深夜句会(11/16) [俳句]

(選句用紙から)

自転車のわづかに残り虫の声

季題「虫の声」で秋。「わづかに残り」がいいですね。場所についてとやかく説明しなくても、駅や学校、工場などの「大きな自転車置場」であることは明らか。朝や昼間はたくさんの人が自転車をとめるので、虫の声なんか聞こえる余地がないのだけど、夜になって大半の利用者が帰ってしまい、自転車がまばらになると、敷地の中か外のどこかから、虫の声が聞こえてくる。


スナックの客の熊手の忘れ物

季題「熊手」で冬。ここでいう熊手は、落葉掃きにつかう実務的な熊手ではなくて、酉の市でもとめてきた縁起物の熊手であろう。詠み手はスナックの客。居合わせたほかの客が帰ってしまったあとをふと見ると、その客がさっき酉の市で買ってきて、お姉さんに自慢気に話していたその熊手が、忘れ物としてぽつんと残っている。
この句を楽しもうとすると、現在(2017年)における「スナック」という商売の世間的位置(大げさだが)を理解しないといけない。あまり思ったとおりのことを書くと、現にこの商売をされている方のご迷惑になってしまうのだけど、少なくとも、勤め人がこぞって足を運び、かわりばんこにマイクを握りしめ、棚にはオールドのボトルがずらっと並んでいるなどという風景は過去のものになりつつあるように思われ、そうした中でスナックに(少なくとも時々は)通っている詠み手と、顔はときどき見かけるけれども名前は知らないその客と、そのいずれもが、少々時代から取り残された存在であるところが、この句に味わいを与えている。

(句帳から)

アーケードの欠けたるところ冬の月
我慢して一層ひどく咳きこんで
荷物用エレベーターの聖樹かな

 
nice!(0)  コメント(0) 

番町句会(11/10) [俳句]

半年ぶり?いやそれ以上欠席が続いていたように思われ(自分のことについて「思われ」は変なのだけど、あまりに記憶が遠いので)、きょうは10人が参集。
きょうの席題は「柊の花」「鷹匠」。毎度のことだがうむむ。

(選句用紙から)

浜離宮へ晴れて鷹匠補となりて

季題「鷹匠(たかじょう)」で冬。鵜飼いを仕事とする鵜匠と同様に、鷹を育てて鷹狩りをするのだけど、宮内庁にはいまでもそういう役職があるとかで、ここでいう「鷹匠補」というのはその役職のひとつなのであろう。どういう経緯でこの世界に入ったかわからないが、さまざまの苦労の末に「晴れて」鷹匠補という役職をいただき、そのお披露目だか発令式だかのために鷹を連れて浜離宮へおもむく、といった句意か。「晴れて」が冬の東京の晴れた空を連想させて好ましい。

飛び上がれば又その石に石たたき

季題「鶺鴒(せきれい=石たたき)」で秋。石たたきは鶺鴒の異名で、長い尾を振る様子が石をたたいているように見えるのでそのように呼ばれるそうだが、どこにでもいる鳥ではあるが、ここでは川原などで、ふと飛び上がった鶺鴒の着地点である大きな石に、すでに先客がいた。

(句帳から)

山茶花の咲き疲れたる小庭かな
肩車十一月の日曜日
鷹匠の終始無言でありしかな
 
nice!(0)  コメント(0) 

第113回深夜句会(10/26) [俳句]

急に寒くなったり暑くなったりする毎日。秋の句と冬の句が混在していても全然違和感なし。

(選句用紙から)

赤子ゐる車両ことこと秋日和

「電車」でなく「車両」というと、列車全体のなかのある一両、という意味になるので(その前に、バスやタクシーやリヤカーも「車両」なのだけど、ここはまず電車の話ととった)、前後にほかの車両がいるかもしれないし、いないかもしれないが、その一両のどこかに、ベビーカーかだっこ紐かで親に連れられて、赤ん坊がひとり乗り合わせている。赤子が目覚めているのか眠っているのかはわからないが、電車はことことと音を立てながら進んでいく。窓を通じて赤子にも日差しがふりそそぎ、さらにその電車全体にも、外側から見れば秋の日差しがあたっているであろう、という多幸感にあふれた一句。「ことこと」が気になるといえば気になるが、許容範囲か。

蓑虫の糸ひとすぢにしたたかに

季題「蓑虫」で秋。虚子に「蓑虫の父よと鳴きて母も無し」の句があるが、その姿が哀れを誘う虫でもある(こどもの悪戯のターゲットになりやすい虫だが、最近あまり見かける機会がないのはどうしたことか)。しかしこの句に出てくる蓑虫は、同じように糸をひいてぶら下がってはいるが、作者には「したたかに」守りを固めているように見える。これもまた、観察から得られる着想であって、お約束に陥らないために必要なことだと思う。「ひとすじにしたたかに」のたたみ掛けも巧み。

(句帳から)

秋の暮自転車が過ぎ影が過ぎ
グランドのこちら側だけ秋の霜
校舎の裏講堂の裏刈田かな

 
nice!(0)  コメント(0) 

第112回深夜句会(9/28) [俳句]

急に寒くなる。秋の雨も降っている。

(選句用紙から)

秋の日のゴミか何かの白きもの

人によっては「ゴミか何かの」が口語的に過ぎると感じられるだろうけれども、この措辞は、あえて何であるかを特定しないまま「白きもの」とだけ言っておいて、それが秋の日の庭先だか道端だかに落ちている、という面白さにある。秋だから白、というだけでは単なるお約束なのだけど、この句では、なんだかわからないその白いものが、秋の色として提示されている。芭蕉が「石山の石より白し秋の風」(秋)、「海暮れて鴨の声ほのかに白し」(冬)のように風や声に色を見出したのとは違った面白さ。

かなかなの爪先立つてゐるやうな

ひぐらし(かなかな)の姿を詠んでいるようにも、また鳴き声を詠んでいるようにも感じられる。後者なら、ひとしきり鳴いて、デクレシェンドかつリタルダンドして鳴きやむ感じを「爪先立って」と叙したものだろう。

(句帳から)

落し水鳥海山に羊雲
実のやうなものこぼれ落ち葉鶏頭
来ては去りまた来ては去る小鳥かな
nice!(0)  コメント(0) 

第111回深夜句会(8/24) [俳句]

そう広くはない喫茶店で、句会のためにテーブルを占拠するのだけど、人数によってはテーブルの確保がたいへん。まあでも忙しい勤め人のための句会なので、みなさんギリギリで会社を抜け出してくるわけだから、2人しか来ないこともあれば10人来られる時もあるのは当然のなりゆきで、お店を貸しきらないかぎり根本的な対策にはならない。

(選句用紙から)

油彩画の光を止め丸茄子

茄子がいちめんにつやつやしている感じを「油彩画の光」と序したところがこの句の手柄。油彩画の光って具体的にはどんな感じなのかと尋ねられると(油絵具をいじったことがないので)ちゃんと説明できないのだけど、厚塗りの紫色の絵の具の表面がテカッているような感じか。確かに、あのテカテカを見ていると、野菜というよりなにかの人工物のように見える。

カフェあるといふ此の霧の森の奥

季題「霧」で秋。道の奥でなく「森の奥」といっているので、森の奥につづく細い道があって、そこを歩いていくとカフェがあるのだそうだ、さてそのカフェはどんなカフェなのだろう(お客も食材も、この細い道を通って徒歩で運ばれるのだろう)ということになる。もちろんいま立っている森の入り口からは、カフェは見えない。シューマンの「森の情景」のような一句。

(句帳から)

クレーンのゆつくり動く残暑かな
掃苔や遺恨といふにあらざれど
割箸の脚の不揃ひ瓜の馬
夕さればかなかなかなと裏の木戸

  
nice!(0)  コメント(0) 

第110回深夜句会(7/13) [俳句]

(選句用紙から)

重さうな車掌の鞄朝曇

季題「朝曇」で夏。通学の鞄とか通勤の鞄って色も形も大きさもさまざまだが、しかし中に何を入れるかは、持ち運ぶ人に委ねられているのが普通だろう。しかし車掌の鞄は、あれは業務上必要なもの(マニュアルとか、非常時の装備品とか)が必要な範囲で詰め込まれているはずで、まさかあの中に文庫本とかペットボトルは入ってはいないだろう。乗務している限りそれを携帯しなければならないというのは、お仕事とはいえ、この夏の暑さのなかではたいへんなことで、それが「朝曇」という季題をよく言い表している。

感想戦で「重そうな」について質疑。「重さうな」だと外から車掌の鞄に視線が注がれていて、視線を注いでいる作者がやや前景化するのだけど、むしろ「重からん」として車掌の側から鞄を見るようにさせたらどうだろうかと。なるほど。私は「重たげに」を思いついた。

かたつぶり塵もろともに掃かれけり

季題「かたつむり」で夏。庭とか路地のようなところであろうか。竹箒で掃き掃除をしていたら、葉っぱとか小石とかに混じって、そこにいたかたつむりも根こそぎ掃き出してしまった。
これも感想戦で、「もろともに」について質疑。「もろともに」だと、掃き出している竹箒の動作が強調されてかたつむりが一句の中心にこないのに対して、「塵にまじりて」なら、掃き出されたもろもろのものごとの中に入り混じっているかたつむりの様子がよりよく描けるのではないかと。確かに「もろともに」は非常に強い言葉なので、一網打尽で大きな動きとして強調されることになるから、かたつむりへの視線を保つためには、一見地味に見える「塵にまじりて」が支持されるかもしれない。

こういう議論が交わせるためには、参加者の言語感覚がある一定以上に研ぎ澄まされていなければいけないわけで、たとえ自分はその最後尾にいるとしても、この句会はありがたい存在。

(句帳から)

大西日横断歩道てらてらと

 

第109回深夜句会(6/22) [俳句]

深夜句会では、披講の前に参加者が自分の選句から一句評をするのだけど、それを聞いていると、その人が一句のどこを見ているかの視点に気づかされ、勉強になる。披講のあとの感想戦(?)もそれと同じで、ここはAでなくBのような表現がとれなかったか、Bを採ると一句として何がどう違ってくるか、といったことを俳人同士が話し合う機会ってあまりないので、たいへん貴重な機会。

(選句用紙から)

駅の端のカフェの端にて麦酒酌む

季題「麦酒」で夏。駅の「は」の、と読んでしまいそうだが、カフェの「はし」にて、と読むからには、駅の「はし」の、と字余りにするのだろう。大きな駅のはじっこにカフェがあって、そのまた端のほうの席に座って、おそらく一人で麦酒を飲んでいるという図。「駅の端のカフェ」って何だといわれそうだけど、欧州の大きなターミナル駅なんかで、あまり使われていないような場所にカフェがあるのはよく見かける風景。改札がないので、列車を利用する人だけでなく、そのへんを歩いている人がふらっと入ってコーヒーをぱっと飲んで出て行ったりするのだけど、外国出張かなにかでそんな店に入って、知り合いがいるわけもないので、端の席にぽつんと一人で飲んでいる感じはよく伝わる。
感想戦で、ここは「酌む」とすると一人なのか二人以上なのかぼやけてしまうので、「飲む」でいいんじゃないかと。なるほどそう思う。

緑蔭の道のいづこへ続くなる

季題「緑蔭」で夏。木下闇なんていうことばもあるが、木かげの薄くらがりに、踏みあとのような道がある(どのような道であるか明示されていないが、立派な舗装道路なら「どこへ続いているのか」という疑問も生じようがないので、立派な道ではないものとして読んだ)。続くともなく木かげを続いていくその道は、さてどこまで続いているのだろうか。公園の端までか、森を抜けて隣の村までか…「いづこへ続く」に詩情があるのだけど、下五を「かな」とせず、「なる<なり」(=○○であることよ)として、「いづこへ続く」にかぶせて終わらせるところが見事。
(?いま思いついたのだが、この「なる」は、「小諸なる古城のほとり」の「なる」と同様、存在の判断をあらわす「なる」で、「道」を修飾しているようにも読める。どちらなのだろう。)

(句帳から)

内側がひどく汚れて夏帽子
うすみどり色のジャケット着て素足

 

第108回深夜句会(5/11) [俳句]

(選句用紙から)

夜濯の終了音やハイツM

季題「夜濯」で夏。もともとは、夏の日中の暑さを避けて、夜になってから洗濯をすることが季題として詠われる。洗濯機なら人がついていなくてもいいから、一日中いつでも回せるのだけど、それでも夜になっていくぶん涼しくなってから洗濯機を回しにかかるという風情はわかるというもの。
で、「終了音」なので全自動洗濯機の洗濯+脱水が終わってピーという音が響いているのだけど、それが聞こえるということは、この「ハイツM」の共用廊下だかベランダだかに、各住戸の入居者の洗濯機が並んでいる風景が想像されるのですね。もう少しいうと、洗濯機置き場は住戸の中にあるのが当節の主流なので、このハイツMは、学生向けの小さなアパートか、かなり古典的なアパートであることも想像され、その「ピー」は、隣の住戸にもその隣の住戸にも、聞こえているわけだ。

薄く濃く新茶の袋皆緑

季題「新茶」で夏。新茶じたいではなく、新茶を入れて売られているアルミ包装のような袋が、どれも「みな」緑色をしていた。それがどうしたのと言われそうだけど、パッケージを考えた葉茶屋さんが、いろいろ考えた末なのか、無造作にした選択なのか、新茶の緑色を選んでいることが面白い。

蝶々のふらついてゐてぶつからず

季題「蝶」で春。「ふらついてゐ」て、でも「ぶつから」ないのは、複数いる蝶々が相互にぶつからないのか、それとも蝶々がフェンスや柵にぶつからないのか定かでないが、蝶の独特な飛び方―予測不可能なあの飛び方―を、説明に陥ることなく、描けていると思う。

(句帳から)

花茨小学校の先に海
街薄暑三車線づつ渡り終へ



番町句会(4/14) [俳句]

締切時間を15分超過して会場に到着(移動中に遅参を連絡し、特段の思し召しで待っていただいている)し、会衆のみなさまが既に投句を終えて見守る中、兼題「春の蠅」に脊髄反射で必死に対応。将棋早指し選手権のようだ。

20170414.JPG

(選句用紙から)

遠くあり近くありして春の雲

これ、私なら「遠くなり近くなりして」とやってしまうことが確実。「遠くあり近くあり」って、一見何でもないようだけど、なかなかできない、すばらしい表現。雲が(または自分が)動いているのでなく、遠くにも近くにも雲があります、と言っているわけだ。比較的ゆっくり動いているか、ほぼ静止しているのだろう。このたゆたう感じが、まさに春の雲なのですね。もっとも、「凍雲」なんていう季題もあって、冬の雲もじっと動かないことがあるにはあるけれど。

どの川も富士の雪解や音高き

季題「雪解け」で春(早春)。富士の山麓では、4月でも雪解水がごうごうと流れているのだろう。どの川「も」ということは、大河に沿ってではなくて、小さな流れをいくつも越えて、等高線に沿うようにして裾野を歩いているのだろうか。


(句帳から)

ガラス戸の内側にゐる春の蠅
制服に手が生え足が生え四月
小径を麓へたどり春深し

冬はどこへ行った? [俳句]

光が丘のIMAホールへ行く道すがら、地図を眺めていてふと気付いた。

光が丘地区に「春の風小学校」「夏の雲小学校」「秋の陽小学校」という名前の小学校があるのだけど、なぜか「冬の○小学校」だけがないのだ。その代わり?なのか「四季の香小学校」というのがある。

hikarigaoka_map.png

なんだこれは。
春、夏、秋ときたら当然冬じゃないのか。
練馬区教育委員会が、冬は小学生にふさわしくないと考えたのだろうか…電話して聞いてみようか…

と思いながらもう少し地図を眺めていると、それぞれの小学校と同じ名前の公園が近くにあるので、どうやら、「地名がそうなっているので、それに合わせて小学校の名前もつけちゃった」みたいだ。
(ちなみに、練馬区のウェブサイトを見てみたら、この4校はもともと8校あった小学校を統合再編して2010年に開校した模様で、それまでは単に「第1小学校」から「第8小学校」だったらしい)

そうすると、この疑問を解くには、光が丘地区が米軍から返還された当時、どうしてこの(冬のない)地名を創設したのかを調べないといけないのだけど、ちょっと難しそう。練馬区の図書館とかにいけば調べられるのかな。

この気持ち悪さを掘り下げて考えると、原因は二つあって、
 ・冬がないことの気持ち悪さ(冬が排除されているように見えることへの腹立たしさ)
 ・春・夏・秋・四季という並びの気持ち悪さ(MBA風にいえば、MECEでないことの気持ち悪さ)
ではないかと。

余談だが、冬にちなんだ小学校の名前を考えるとしたら何がいいか。ここは俳人の腕の見せ所なのだけど
 ・冬の星小学校
 ・冬の晴小学校
 ・冬の森小学校
なんかどうでしょう。

 

第107回深夜句会(4/13) [俳句]

初めて参加される若い男性が、「この句会が生まれて初めて参加する句会」だとおっしゃるので、会衆一同大歓迎。自分の「はじめての句会」っていつだったのだろう。1980年の秋から冬にかけてのどこかだと思うのだけど、記録もないし、もう全然覚えていない。こんなに長く俳句を続けるとは思ってもみなかった。

(選句用紙から)

桃色の少し差したる桃の花

うぐいすを見て「うぐいす餅の色だね」と言うジョーク(?)があるけど、桃の花―ここでは白い花なんだろう―をよく見ると、そこにうっすらと桃色が差している。ここでは虚子の「白牡丹といふといえども紅ほのか」が連想されるが、白い花といってもかすかに赤みがかっていて、その赤の色が他ならぬ桃色だ、というのは、眼前の事実であるので、言葉遊びのみに陥ることをまぬかれている。

焦げ目よし花の餃子と云うべしや

季題「花」で春…ということになろう。花の宴とか花見酒とはいうが、花の餃子って何なのということだが、花見に誰かが持ってきた焼き餃子の焦げ目を見て、参加者がたわむれに「これぞ花の餃子だ」などと言い合っているのだろう。「焦げ目よし」の藪から棒加減も、たわむれにそう言っていることを示しているのだろう。「云うべしや」の「べし」は適当(そのように言いなすのがよい)の「べし」であろうか。

(句帳から)

春の星いただいてをる山地かな
ゆでこぼしながら低唱春深し




メッセージを送る