So-net無料ブログ作成

番町句会(12/9) [俳句]

(清記用紙から)

猫はもの言はぬがよけれ漱石忌

季題「漱石忌」で冬(12月)。「吾輩は猫である」は猫がさまざまな独白をする物語だけど、実際に飼い猫がしゃべることができたなら、うっとうしくてたまらないだろう。この句が多くの票をあつめたのは、この「もの言はぬがよけれ」への共感と思われるところ。

英国とも交へし干戈漱石忌

漱石は英文学者としてロンドンに留学したりもしていて、そこでさまざまなエピソードも生まれてきたのだけれど、時期としては日露戦争の直前にあたる。それから40年もしないうちに、日本はイギリスとも戦火をまじえたのだった。英国と「も」とわざわざ言う必要があるか、考えるところ。「アメリカと戦争をしたのだけれど、漱石が留学していたその英国とも戦ったのだった」という句意になるのだろう。また、「英国と」だと、一句の中心が上五中七に傾いてしまい、漱石忌がどこかへ行ってしまうという配慮かもしれない。

(句帳から)

冬の影曳いて二台のベビーカー
ポプラ一列冬野と冬野隔てたる
一時間半も歩いて狩の宿

番町句会(11/11) [俳句]

きょうの兼題は「蕎麦刈」「鷲」。蕎麦刈りを目の前で見たことって、なかったような…

(清記用紙から)

蕎麦刈るやはるか低きに村の屋根

季題「蕎麦刈」で冬。山の斜面の段々畑で蕎麦刈りをしているのだけれど、ふと目を転じると、その段々畑のはるか遠く、ではなく、はるか下のほうに、村の家々の屋根がぽつんぽつんと見えている。
司馬遼太郎の小説(タイトルを失念した)の冒頭に、南信州のどこかの村についてのそのような描写があるけれど、まさにその世界である。
(もっとも、旧南信濃村の場合、山の上のはるか高いところに集落がある、不思議な風景なのだけど)

蕎麦刈るや虫やしないにメロンパン

それなりに広さのある蕎麦畑なのであろうか。蕎麦刈りの途中でちょっと休憩をとなったのだけど、そこで虫やしないにメロンパンをいただいた。握り飯とか海苔巻とかあんぱんじゃなくて「メロンパン」だというところにこの句の面白さがあって、専業でやっている老農夫だったらメロンパンなんか頬張らないだろうから、メロンパンを買ってわざわざ畑に持って行く人といったら、若い人であろうか。ひょっとして素人が、面白半分でやっているのかもしれない。そんな蕎麦刈りの様子がうかがわれる。

鷲が提げゆけるだらりとしたるもの

季題「鷲」で冬。鷲がその爪に獲物をとらえて運んでいくのだけど、その獲物はすでに動きを失って、だらりとぶら下がっているように見える。ちょっと前まで生きて動いていたであろうその小動物を「だらりとしたるもの」と捉えたことで、食う側食われる側の非情な戦いがかえって際立っている。

(句帳から)

蕎麦刈を了へて集合写真かな

第102回深夜句会(11/10) [俳句]

(清記用紙から)

猪が蚯蚓を掘りに来る御庭

季題「猪」で冬。蚯蚓も夏の季題だが、ここでは猪が一句の中心。山から現れた猪が畑のあれこれを食い荒らしたり、あちこちで悪さをするのだけれど、それが、名園といわれるようなお屋敷のお庭に入り込んで、蚯蚓を掘り散らかしている。いまそのお庭にいて、ここが猪に掘り返されたところです、などという話を聞いているところ。

「御庭」とすることで、単にそのへんの民家の庭先に入り込んだのではなくて、庭園として管理されているところとか、あるいは大きなお屋敷に付属する庭であることがわかる。そんなところまで猪が現れて、という気持ちの動きもあるのだけれど、それを表に出してあれこれ言わなくても、こんなところに猪が、という感じはよく伝わっている。

土嚢から草生えさらに帰り花

季題「帰り花」で冬。狂い咲きの意で、単に帰り花といえば桜の狂い咲きをさすのだけど、この句ではどうか。
大水のときにつまれた土嚢から芽が出て草が生え、「さらに」帰り花、としたことで、自分は「その草がさらに、ときならぬ花を咲かせた」と読んだのだけど、「草生え」でいったん切れて、さらに「桜の帰り花」ではないかとの指摘もあって、確かにそうとも読めるなあと。

鳩サブレ膝に小春の南武線

季題「小春」で冬。南武線といい鳩サブレといい小道具で読ませるのかと言われそうだけど、しいて解説しろと言われれば、東海道線や中央線とちがって短時間で乗り降りする人が多いことから、あわただしい中にも、紙袋を膝にのせてひと駅かふた駅電車に乗りながら、冬のはじめのよい天気をひととき愉しんでいると感じられる点だろうか。じゃあ「総武線」ではダメなのかといわれるとウーンなのだけど、少なくとも「五能線」はないことは了解されるわけで。


(句帳から)

忘れ物取りに戻つて今朝の冬
カフェの窓すこし濡らして夕時雨


第101回深夜句会(10/13) [俳句]

(選句用紙から)

雨だれの地に触るる音蚯蚓鳴く

季題「蚯蚓鳴く」で秋。地虫鳴くとか蚯蚓鳴くとかって、実際の虫の音というより、何かそのような音がするように感じられる、という趣旨なのだけど、ここで描かれている風景は、秋の雨が降り続いていて、その雨だれが地に「触れる」そのあるかないかの触れる音がずっと続いているのと呼応するように、蚯蚓の鳴く音が続いているように感じられる、という句意。巧みなのは、地を穿つ音とか地に跳ねる音とか(ぴちゃっという音)ではなく、あるのかないのかわからないような、地に「触るる」音、を持ってきたところ。どんな音なのであろうか、と読み手は一瞬考えるわけだけど、その「どんな音なのであろうか」がそのまま、蚯蚓鳴くにつながっていく。

かつて見し案山子を描いてくれにけり

季題「案山子」で秋。ちょっと入り組んだ状況で、目の前に案山子があるわけではなく、自分と話している誰かが、かつてどこかで見た案山子を絵に描いてくれた、ということか。その案山子が、よほど変った姿かたちをしていたのであろう。それがどんな形なのか一向にわからないところに弱点があるのだけど、広告の裏とかスケッチブックとかに風変わりな案山子の絵を描いて、自分のために説明してくれた、という一連の所作に感興を覚える、ということなのだろう。


(句帳から)

やや寒や街灯の下長電話
四十雀小学校の日曜日

第100回深夜句会(9/15) [俳句]

めでたく第100回。写真を撮り忘れたのが残念。

(選句用紙から)

石灰のラインの白し花木槿

季題「槿」で秋。運動会でもあるのだろうか、校庭やグランドに石灰で白い線が引かれているが、その横の塀際だかフェンス際には、木槿の花が群れ咲いている。石灰の線なのだからもともと白いのは当たり前ともいえるところ、その「白」がことさら白く感じた、というところに詩心があって、そこが木槿の白い色とも重なっているのですね。

秋草をテーブルごとに違う色

季題「秋草」で秋。テーブル「ごと」と言っているので、自宅とかではなく、多くのテーブルを擁する場所、例えばレストランのような場所が想像される。そこへ秋草、たとえば桔梗とか女郎花とかを卓上花として飾るのだけど、テーブルごとに異なる草花をいけた、という句。自分や自分のスタッフがそのようにいけた、という立場で詠んでいるのか、それともお客として訪ねてみたらこうだった、という立場で詠んでいるのか判らないところが残念だが、秋の草花のさまざまな色が感じられる一句。

(句帳から)

青山のカフェのバケツの叢芒
脱毛サロン育毛サロン爽やかに
かなかなのいつもデクレッシェンドかな

番町句会(9/9) [俳句]

きょうのお題は「太刀魚」「葛の花」。このところ毎回、締切ぎりぎりに到着しているので、席について数分以内に句を詠んで提出するのは、なかなか体に悪い。

(選句用紙から)

家墓は畑の中に韮の花

季題「韮の花」で秋。白く群れ咲く花ですね。
畑の一角を切り取るように小さな墓があって、そこが一家一族の墓地になっている。ここでの畑は、北海道の広大な畑よりは、たとえば南信濃あたりの、山の上まで段々に耕されている中に家が点々とあるような、小さな畑の一角なのだろう。で、その小さな墓、小さな畑、小さな家のある風景のなかに、いま韮の花が白く咲いている。

花葛や初心(うぶ)は濃ゆきを慕ふもの

こういう変化球は楽しい。季題「葛の花」で秋。ちなみに葛は秋の七草でもある。
葛の花は、竜が頭をもたげるようにして下から咲いていくのだが、花の色は一様でなく、淡い花片(あれは花片なのか?)と濃い花片がみっしり集まって咲いている。そこで目だたしいのは、当然に濃い部分であって、葛の花といったらまずその濃いところに目が行くのだけど、淡い部分、内側の黄色い部分も含めて全体のすがたかたちこそが葛の花なのである。

…と書くとなんだか当たり前だが、この句のもう一つの意図はむろん、「初心」の男子が「濃ゆき」女子を慕ってしまうというところにあって、うふふなのである。それがあまりに前景化するとうるさい俳句になってしまうところ、主調はあくまでも葛の花を愛でる話なのであって、そのコントロールはとても難しい。私のような素人がやれば、ベタベタになってしまうか、遠すぎてなんだかわからない俳句になってしまいそう。


(句帳から)

車道から歩道へ溢れ秋出水
いやでもと言いかけてやめ秋暑し
秋麗や電車カーブを曲がり終へ

第99回深夜句会(7/14) [俳句]

(選句用紙から)

日曜の青蔦の髭跳ねてをり

季題「青蔦」で夏。フェンスでもブロック塀でも煉瓦の館でもいいが、なにも日曜でなくたって青蔦の蔓の先はくるりとはねているのだけど、それを間近でしっかり見据える時間と心の余裕は、日曜日でなければ得られない。
こういう鑑賞をすると、じゃあどんな季題でも「日曜の○○が…」となってしまうのかと問われそうだけれど、そうではなくて、ツタの蔓の先という小さな、そして誰も顧みない(同じ小さなものでも、植木鉢に播いた種子が発芽しました、というような風景なら、少なくとも播いた人がそれを見ている)ものに対して反応できる「季題へのまなざし」がそこにあるから、この句は成り立っている。

薬罐ごと浸してをりて麦茶かな

季題「麦茶」で夏。「薬罐ごと」が微妙で、大きなバケツにヤカンが浸されているように聞こえてしまう(そんなわけない)が、ヤカンをそのまま大きな急須のようにつかって、麦茶を浸出させている。どこの風景と断ってなくても、野球場とかグランドとか、そんな場所が想像される。


(句帳から)

目に見えて近づいてくる白雨かな
懲罰のやうに真夏の夜の雨
 

番町句会(7/8) [俳句]

5月は選句だけ、6月は欠席だったので久しぶりの出席。

(選句用紙から)

日覆のキッチンカーに小さき列

季題「日覆」で夏。公園の入り口などに、ワーゲンバスを改造したような車が停まって、飲み物やちょっとした食べ物なんかを売っている風景。車の横腹の、お客さんに相対するところには日覆い(シェード)が出せるようになっていて、そこに何人かが列をつくっている。
「日覆のキッチンカー」がちょっと窮屈なのが残念で、ここは単に「日覆や」でいいんではないかと。それで十分わかるのではないだろうか。
日覆という季題と、「小さき列」の組み合わせが絶妙。長い列だったらナンノコッチャになってしまう(その長い列のほうに一句の中心が行ってしまう)し、誰もいなかったら俳句にならないのだけど、数人が並んでいるこの風景が、夏の盛りの都会をよく描いている。
と同時に、この「日覆をそなえたキッチンカー」という存在自体が、20年前にはほとんどなかった(あったとしても、広く理解され鑑賞される状況ではなかった)し、20年後にはあるかどうかわからないものであって、俳句という文芸が結果的に(この「結果的に」という点は重要)時代の証言者というか、時代を描くことになることもまた重要ではないかと。

のびやかに曲りし胡瓜糠床へ

季題「胡瓜」。「のびやかに」と来るので、さあ何がのびやかになんだと思いながら待っていると、意表をついて「曲がりし」ときた。「のびやかに」「曲がりし」って一体なんだよと混乱したところで「胡瓜糠床へ」と正体が示されて、そこではじめて状況がわかる。
胡瓜の話と明かされれば、なるほど確かに「のびやかに」「曲がりし」は言いえて妙だなあ、というところ、この言葉の選びかたは、あまりあざとくやると、そのねらいが目立ちすぎて、読み手には違和感が先に立ってしまうものだが、この句にはそういうにおいはなく、その手前できちんと踏みとどまっている。


彼の人も酒でしくじり泥鰌鍋

季題「泥鰌」で夏。泥鰌鍋は、どじょうの泥臭さを消すために、ねぎだの何だのを大量にぶちこんでいただく庶民の料理と理解してよいと思うのだけど、そこで酒を飲みながら、今ここにはいない「彼の人」が酒で失敗した話をしている。
俳句でむずかしいものの筆頭は助詞「も」だと思っている。この句の「も」は「自分も酒でしくじったところ、彼の人も」の意味になろうが、軽い諧謔と悔恨の入り混じった風味を鑑賞するのは、簡単そうで簡単ではない。


(句帳から)

朝曇日ごとにビルを解体し
赤白の赤の滲める灸花
朝曇映りこんだるにはたづみ
青蔦の一直線の蔓の先

第98回深夜句会(6/16) [俳句]

あと2回で100回!

(選句用紙から)

カーテンのやうに降る雨梅雨深し

季題「梅雨」で夏。
梅雨末期の強い雨であろうか。風を伴って白い幕を下ろしたように降っている雨を「カーテンのやう」と叙したところに眼目がある。ひょっとするとどこかに類句があるのかもしれないが構わない。霧雨でもシトシト降る雨でもなく、カーテンのように移ろいながら強く降っている、というさまをイメージさせる強い力をもっている。

(句帳から)

ケチャップのにほひ流れて路地の夏
一人去りまた一人来て夜釣かな

第97回深夜句会(5/19) [俳句]

先月の深夜句会の最中に熊本地震が起きたことをふと思い出す。あれから1か月。

(選句用紙から)

鼻高く確と日焼をしてをりぬ

季題「日焼」で夏。西洋の人なんかが日本にやってくると(やってこなくても)、夏の強い日差しであっという間に真っ赤に日焼けしてしまうのだけど、それがまた見事に、鼻の先とかおでこから焼けていくのですね。これはむろん、私たちが日焼けするときでもそういう順序で日焼けしていくのだけど、肌の色が白い人だと、高い鼻が濃いピンク色に焼けてしまって、いかにも痛々しく目だたしい。「確と」なんて、へたに使うと上滑りしてしまうのだけど、この句では、かすかな諧謔味とともにうまく使われている。

出張の英語に疲れ明易し

季題「明易」で夏。日本からどこかへ出向いていって英語の打合せなんかをするのだが、慣れない外国語での仕事なので、気分的に疲れてしまったのだろうか、夜中とか早朝に目が覚めてしまう。いま何時だろうと思って外を見ると、もう明るくなっている。「明易」という季題と、ちょっと疲れた自分の心持とがよく響き合っている。

上水にかぶさりえごの花盛り

季題「えご(売子)の花」で夏。えごの木って、初夏に白い花を下向けに咲かせるのだけど、一本の木に尋常じゃない数の花をつけるのですね。この木はたまたま、「玉川上水」とか「千川上水」のほとりに植えられていたのだろうけど、「上水」ということから川幅はあまり広くなくて、そこにえごの木が大きく育って無数の花をつけるとなれば、もう上水を覆いつくさんばかりに真っ白に咲いているのでしょう。で、咲き終わった花は上水の水面に落ちて流されていく、季節のある瞬間を切り取って美しい。

(句帳から)

発車ベル既に鳴り終へ若葉風
豆飯を炊いてゐる間の懐古談
麦熟れて畑は裂けて大地震
農大のポプラの新樹一列に



第96回深夜句会(4/14) [俳句]

句会が終りかけた時間に、熊本で大地震。

(選句用紙から)

物思ふぺんぺん草をひつこ抜き

季題「ぺんぺん草」(薺の花)で春。
「物思ふ」を上五に置いていったん切る。後にありきたりな話が続くと、陳腐な一句になってしまうのだけど、何もないことの象徴ともいえる「ぺんぺん草」が来ることから、なんとも不景気な中七下五で、庭の草取りをしながら、心ここにあらずというか、春の愁い(それ自体も季題なのだけど)に満たされている。最後「ひっこ抜き」でもう一度「物思ふ」に返しているところも手堅い。

みっしりと咲き連ねたる桃の花

季題「桃の花」で春。白や桃色をした桃の花は、縦方向に長い桃の枝に、花だけが数珠繋ぎになったようにして咲いている(花蘇芳なんかもそういう咲き方をしますね)。それを「みっしりと」「咲き連ねたる」と表現したところにこの句の取り柄があるのだろう。説明でありながら、説明調に陥らずに踏みとどまっているところもよい。


(句帳から)

花冷や注記の多い決算書
小さな傘大きな傘に花の雨
花すこしこぼれ落ちたり花御堂



番町句会(4/8) [俳句]

(選句用紙から)

騎馬像の下にテントや花案内
季題「花(花案内)」で春。騎馬像があるような場所といったら、まず公園しか思いつかないわけで、公園の入口近く、騎馬像の下にテントが仮設されていて、そこで公園のあちこちにこんな桜の木が植わっているなどと案内してくれる。人出とか花見とかいちいち言わずに、公園の花案内、で済ませてそれで読者にも判るあたりが周到。

庭仕事もあるにはありて朝寝かな
季題「朝寝」で春。「あるにはありて」がいいですね。あるにはあるのだけど、やってもやらなくてもいい感じが漂っている。もっと差し迫った何かー示談交渉とか、災害復旧工事とかーだったら、「あるにはありて」にならないわけで。で、真夏や真冬じゃないので、その庭仕事をやるにもいい季節なのだけど、という緩い感じが朝寝のぐだぐだした感じとうまくシンクロしていい感じ。

(句帳から)

あれもこれも了へたつもりの朝寝かな
花屑や看板にはりついたまま

第94回深夜句会(2/25) [俳句]

順番を間違えて、第95回の記録をさきにアップしてしまった。あわてて第94回の分を。

(選句用紙から)

でめきんの眼にやはらかく春の水

季題「春の水」で春。水槽に飼われた出目金の、その目にも、目のまわりの水にも等しく春の日が降り注いでいている。もともと水の中にあって大きく見えるのだけど、目の周りでゆらゆら揺れている水が、春の日をうけてことさらにやわらかく感じられる。こういう詩情はいいですね。

押し合うて横向くもある田螺かな

茶色とも黒ともつかない巻き貝であるタニシが、どこか狭いところにひしめき合っているさま(想像?)がまず面白いのだけど、その一部がはみ出して、横を向いたりしているのだろうか。そっぽを向いているような。

(句帳から)

屋根の色うつすら見ゆる春の雪
風をはらむビニールシート春寒し

番町句会(3/11) [俳句]

20160311.jpeg

職場を出るのが遅れ、締切に間に合わない事態に。不在投句もしていなかったので、俳句人生(?)35年間で初めての「選句のみ参加」となった。
まぁ普通なら、締切に間に合わない時点で参加をあきらめ、帰ってくるわけだけど。

(選句用紙から)

車椅子を押して屋上山笑ふ

季題「山笑ふ」で春。病院とか老人ホームのような場所が想像されるが、そこから遠くない場所に山があって、車いすの人にも、それを押す人にも木々の芽吹きや枝が風で揺れるさまが見えている。大都会のど真ん中でなく、まぢかに山が見えるような郊外とか地方の風景なのだろう。ところで「山眠る」「山装ふ」だったらどうか。これはこれで、だいぶ肌合いの違う詩として成立する。

山門は足場を組みて雪解富士

季題「雪解富士」で夏。これも作者と富士との距離が鑑賞の鍵になる。遠くからだと、富士の雪解けの状況がわからないし、ものすごく近ければ目の前の風景すべてになってしまうわけだから、富士の麓にある町の、そのお寺であろう。足場を組んで改修をするのだけど、その山門のむこうに、雪解けのはじまった富士がおおきく見えている。「足場を組んで」が、いま進行中あるいはこれから進行する一定の時間を示しているのに対して、「雪解富士」は時々刻々変化する富士山の「現在」を切り取っている。

 

第95回深夜句会(3/10) [俳句]

あと5回で通算100回!

(選句用紙から)

春雨や電柱の根を黒うせり

沛然と降る夏の雨だったら、電柱の根が濡れているどころではないだろう。春の弱い雨が、一様にではなく、電柱の根元の、舗装道路に近いあたりを黒く濡らしている。誰もが見ている風景なのだけど、それを切り取ってくるかどうかは、眼前のたくさんのものを虚心坦懐に見据えられるかどうかにかかっている。

地虫出づ天然痘の絶えし世に

季題「地虫出づ」で春。「地虫穴を出づ」「地虫出づ」「蟻穴を出づ」「地虫」はいずれも啓蟄の傍題とされる。ちなみに「地虫鳴く」は秋。
虚子に「蛇穴を出て見れば周の天下なり」の句があるが(『五百句』明治31年)、地中で冬眠していた虫や蛇が春になって外に出てきたら、世界は一変していた、という点では共通するものがある。この句の面白いところは、一応根絶されたことになっている天然痘を詠むことで、この地虫に禍々しい役割−もう一度天然痘を運んできた−を与え、ちょっとホラー映画の冒頭のような読み方もできるところではないだろうか。

(句帳から)

いちめんのキャベツ畑に春の雪
春の霧濃し駅員のアナウンス
駅裏の英語学校春寒し

夏潮新年会(2/21) [俳句]

去年は発熱でぶっ倒れて参加できなかったので、久しぶりの参加。

(選句用紙から)

あたゝかや二百号とて遠からず

季題「暖か」で春。百号のお祝いをしながら、8年後に来る二百号をもう射程に収めて、それまでにあんなこと、こんなことをやりたいと考える前向きな、こころがせくような気持ちと、「暖か」という季題―長い冬のあとでやってきた春を歓ぶ気持ち―がよく響き合っている。会場に78人もいたのに、誰もこの句を採らなかったのが不思議。

釣堀の外に釣り人草萌ゆる

釣り堀に釣り人がいるのは当たり前。釣り堀の「外に」釣り人がいるから面白い。この描写から、川とか沼とか掘割の一部を区切って設けられた釣り堀であることもわかる。

(句帳から)

紅梅や三代続く歯科医院

番町句会(2/12) [俳句]

もう2月。毎日がどんどん過ぎていく。

(選句用紙から)

単線を載せて法面下萌ゆる

法面は「のりめん」と読む。ことばの由来は知らない。今ならコンクリートの高架橋で通すような場所を、土手(築堤)で線路が通っている。土を盛っているので、台風で流されて、レールと枕木が宙づりになったりするのだけど、その土手の斜面に、夏になら草ぼうぼうのところ、いまは一面の枯れ草で、しかしそのところどころから、新しい芽が萌え出ている。土手が「単線を載せている」と捉えた面白さ。しかも、理屈をいえば、単線なので土手の幅が狭く、ぽつんと突き出た感じがより強いのですね。


草萌のここの真下に破砕帯

河原とか野原とか、ともかく草萌の景色を詠んでいるのだけど、その真下に、そういえば破砕帯があるんだった、とこれはまたなんとも不穏な。地上の「草萌」という季題がもつ明るい生命力と、地下の「破砕帯」の暗いまがまがしさとの間にある、巨大な落差。詩というもののひとつのあり方をここに見ることができる。それでもなお、一句の中心は「草萌」にある。

(句帳から)

死に絶へし家のミモザの黄色かな
閉ざされし窓の向うの大試験
隣村との境まで山焼ける
春寒やホームに白い杖の音

第93回深夜句会(1/14) [俳句]

(選句用紙から)

納めたる札に重ねし納札

新しい御札をいただいて、前の御札をお納めするのだけど、その箱に、乱暴に放り込むのではなく、前の人が納めた札の上に重ねて帰ってきた。それだけといえばそれだけのことなんだけど、その動作が「お札を納める」という季題を、十分に、しかしわざとらしくなく表現している。

下萌のつややかにして土かぶる

生まれたばかりの下萌、土をおしのけて出てきた色のつややかさと、その土の色の対比が美しい。

(句帳から)
水鳥を浮べしままに湖暮るる
初御空沖の船まで晴れ渡り
森の木の影絵となつて初茜

番町句会(1/8) [俳句]

(選句用紙から)

梓に上せたきはこれこれ春を待つ

季題「春待つ」で冬(晩冬)。「待春」とも。
家族か研究仲間か、ともかく話し相手との間で、今度上梓したい本の内容はこういうもので…という話をしている。すぐに実現するのか、あるいは実現しそうもないのか、いずれにせよそれが日の目を見て書籍となって世に問われるのを「待っている」、その「待っている」と、春を「待つ」気分とが響きあっている。

初空の富士を起点の飛行雲

季題「初空」で新年。
初御空に一筋、飛行機雲がいま白い線を引いたように伸びていっている。その飛行機雲の白線をずっとさかのぼっていくと、それは富士山の近くのある一点から始まっていた。東京あたりからだと、富士山はかなり遠くにあるので、「富士を起点の飛行雲」にはならないのだと思うが、もっと富士山に近い、御殿場とか富士吉田あたりから眺めると、「富士山の手前からずっとこちらに伸びてくる飛行機雲」という風景は実感できるかもしれない。

(句帳から)

寒鯉につれて水面の動くかな
お飾を掲げ透析送迎車
会社抜け出し焼きりんご食べにゆく
朝までの勤務を終へて初電車

番町句会(12/11) [俳句]

(選句用紙から)

一刷毛の雲を浮べて冬の空

「一刷毛の」といったら秋の雲のように思うのだけど、それがきょうは冬の空にすっと浮かんでいた。空一面の雲とか、塊となってむくむく盛り上がる雲ではなく、すこしかすれた刷毛でさっと描いたような薄雲が、冬の青い空をちょっとしたスピードで動いていく。

餅搗や一臼の他任せたる

季題「餅搗」で冬(12月)。一人で餅をつく人はいないので、親戚かご近所か、いずれにせよ大人数で餅搗をするのだけど、その餅搗の、最初の一臼(餅搗き機でなく、臼と杵で搗いているということですね)だけ加わって、あとはみなさんに「お任せ」したというので、作者はそれなりに年かさの、その場のリーダー格なのだろう。「いや最近腰がどうも…」などというセリフが聞こえてきそう。

(句帳から)

湯豆腐や甚だ頼りなき会話
平野まで迷ひ出でたる冬の雲
短日やばたんと閉まる改札機
里山の地肌の見ゆる冬木立
楮蒸しながら限界集落と
紙漉いて差し込んでくる朝日かな
→紙漉に差し込んでくる朝日かな


メッセージを送る