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第99回深夜句会(7/14) [俳句]

(選句用紙から)

日曜の青蔦の髭跳ねてをり

季題「青蔦」で夏。フェンスでもブロック塀でも煉瓦の館でもいいが、なにも日曜でなくたって青蔦の蔓の先はくるりとはねているのだけど、それを間近でしっかり見据える時間と心の余裕は、日曜日でなければ得られない。
こういう鑑賞をすると、じゃあどんな季題でも「日曜の○○が…」となってしまうのかと問われそうだけれど、そうではなくて、ツタの蔓の先という小さな、そして誰も顧みない(同じ小さなものでも、植木鉢に播いた種子が発芽しました、というような風景なら、少なくとも播いた人がそれを見ている)ものに対して反応できる「季題へのまなざし」がそこにあるから、この句は成り立っている。

薬罐ごと浸してをりて麦茶かな

季題「麦茶」で夏。「薬罐ごと」が微妙で、大きなバケツにヤカンが浸されているように聞こえてしまう(そんなわけない)が、ヤカンをそのまま大きな急須のようにつかって、麦茶を浸出させている。どこの風景と断ってなくても、野球場とかグランドとか、そんな場所が想像される。


(句帳から)

目に見えて近づいてくる白雨かな
懲罰のやうに真夏の夜の雨
 

番町句会(7/8) [俳句]

5月は選句だけ、6月は欠席だったので久しぶりの出席。

(選句用紙から)

日覆のキッチンカーに小さき列

季題「日覆」で夏。公園の入り口などに、ワーゲンバスを改造したような車が停まって、飲み物やちょっとした食べ物なんかを売っている風景。車の横腹の、お客さんに相対するところには日覆い(シェード)が出せるようになっていて、そこに何人かが列をつくっている。
「日覆のキッチンカー」がちょっと窮屈なのが残念で、ここは単に「日覆や」でいいんではないかと。それで十分わかるのではないだろうか。
日覆という季題と、「小さき列」の組み合わせが絶妙。長い列だったらナンノコッチャになってしまう(その長い列のほうに一句の中心が行ってしまう)し、誰もいなかったら俳句にならないのだけど、数人が並んでいるこの風景が、夏の盛りの都会をよく描いている。
と同時に、この「日覆をそなえたキッチンカー」という存在自体が、20年前にはほとんどなかった(あったとしても、広く理解され鑑賞される状況ではなかった)し、20年後にはあるかどうかわからないものであって、俳句という文芸が結果的に(この「結果的に」という点は重要)時代の証言者というか、時代を描くことになることもまた重要ではないかと。

のびやかに曲りし胡瓜糠床へ

季題「胡瓜」。「のびやかに」と来るので、さあ何がのびやかになんだと思いながら待っていると、意表をついて「曲がりし」ときた。「のびやかに」「曲がりし」って一体なんだよと混乱したところで「胡瓜糠床へ」と正体が示されて、そこではじめて状況がわかる。
胡瓜の話と明かされれば、なるほど確かに「のびやかに」「曲がりし」は言いえて妙だなあ、というところ、この言葉の選びかたは、あまりあざとくやると、そのねらいが目立ちすぎて、読み手には違和感が先に立ってしまうものだが、この句にはそういうにおいはなく、その手前できちんと踏みとどまっている。


彼の人も酒でしくじり泥鰌鍋

季題「泥鰌」で夏。泥鰌鍋は、どじょうの泥臭さを消すために、ねぎだの何だのを大量にぶちこんでいただく庶民の料理と理解してよいと思うのだけど、そこで酒を飲みながら、今ここにはいない「彼の人」が酒で失敗した話をしている。
俳句でむずかしいものの筆頭は助詞「も」だと思っている。この句の「も」は「自分も酒でしくじったところ、彼の人も」の意味になろうが、軽い諧謔と悔恨の入り混じった風味を鑑賞するのは、簡単そうで簡単ではない。


(句帳から)

朝曇日ごとにビルを解体し
赤白の赤の滲める灸花
朝曇映りこんだるにはたづみ
青蔦の一直線の蔓の先

第98回深夜句会(6/16) [俳句]

あと2回で100回!

(選句用紙から)

カーテンのやうに降る雨梅雨深し

季題「梅雨」で夏。
梅雨末期の強い雨であろうか。風を伴って白い幕を下ろしたように降っている雨を「カーテンのやう」と叙したところに眼目がある。ひょっとするとどこかに類句があるのかもしれないが構わない。霧雨でもシトシト降る雨でもなく、カーテンのように移ろいながら強く降っている、というさまをイメージさせる強い力をもっている。

(句帳から)

ケチャップのにほひ流れて路地の夏
一人去りまた一人来て夜釣かな

第97回深夜句会(5/19) [俳句]

先月の深夜句会の最中に熊本地震が起きたことをふと思い出す。あれから1か月。

(選句用紙から)

鼻高く確と日焼をしてをりぬ

季題「日焼」で夏。西洋の人なんかが日本にやってくると(やってこなくても)、夏の強い日差しであっという間に真っ赤に日焼けしてしまうのだけど、それがまた見事に、鼻の先とかおでこから焼けていくのですね。これはむろん、私たちが日焼けするときでもそういう順序で日焼けしていくのだけど、肌の色が白い人だと、高い鼻が濃いピンク色に焼けてしまって、いかにも痛々しく目だたしい。「確と」なんて、へたに使うと上滑りしてしまうのだけど、この句では、かすかな諧謔味とともにうまく使われている。

出張の英語に疲れ明易し

季題「明易」で夏。日本からどこかへ出向いていって英語の打合せなんかをするのだが、慣れない外国語での仕事なので、気分的に疲れてしまったのだろうか、夜中とか早朝に目が覚めてしまう。いま何時だろうと思って外を見ると、もう明るくなっている。「明易」という季題と、ちょっと疲れた自分の心持とがよく響き合っている。

上水にかぶさりえごの花盛り

季題「えご(売子)の花」で夏。えごの木って、初夏に白い花を下向けに咲かせるのだけど、一本の木に尋常じゃない数の花をつけるのですね。この木はたまたま、「玉川上水」とか「千川上水」のほとりに植えられていたのだろうけど、「上水」ということから川幅はあまり広くなくて、そこにえごの木が大きく育って無数の花をつけるとなれば、もう上水を覆いつくさんばかりに真っ白に咲いているのでしょう。で、咲き終わった花は上水の水面に落ちて流されていく、季節のある瞬間を切り取って美しい。

(句帳から)

発車ベル既に鳴り終へ若葉風
豆飯を炊いてゐる間の懐古談
麦熟れて畑は裂けて大地震
農大のポプラの新樹一列に



第96回深夜句会(4/14) [俳句]

句会が終りかけた時間に、熊本で大地震。

(選句用紙から)

物思ふぺんぺん草をひつこ抜き

季題「ぺんぺん草」(薺の花)で春。
「物思ふ」を上五に置いていったん切る。後にありきたりな話が続くと、陳腐な一句になってしまうのだけど、何もないことの象徴ともいえる「ぺんぺん草」が来ることから、なんとも不景気な中七下五で、庭の草取りをしながら、心ここにあらずというか、春の愁い(それ自体も季題なのだけど)に満たされている。最後「ひっこ抜き」でもう一度「物思ふ」に返しているところも手堅い。

みっしりと咲き連ねたる桃の花

季題「桃の花」で春。白や桃色をした桃の花は、縦方向に長い桃の枝に、花だけが数珠繋ぎになったようにして咲いている(花蘇芳なんかもそういう咲き方をしますね)。それを「みっしりと」「咲き連ねたる」と表現したところにこの句の取り柄があるのだろう。説明でありながら、説明調に陥らずに踏みとどまっているところもよい。


(句帳から)

花冷や注記の多い決算書
小さな傘大きな傘に花の雨
花すこしこぼれ落ちたり花御堂



番町句会(4/8) [俳句]

(選句用紙から)

騎馬像の下にテントや花案内
季題「花(花案内)」で春。騎馬像があるような場所といったら、まず公園しか思いつかないわけで、公園の入口近く、騎馬像の下にテントが仮設されていて、そこで公園のあちこちにこんな桜の木が植わっているなどと案内してくれる。人出とか花見とかいちいち言わずに、公園の花案内、で済ませてそれで読者にも判るあたりが周到。

庭仕事もあるにはありて朝寝かな
季題「朝寝」で春。「あるにはありて」がいいですね。あるにはあるのだけど、やってもやらなくてもいい感じが漂っている。もっと差し迫った何かー示談交渉とか、災害復旧工事とかーだったら、「あるにはありて」にならないわけで。で、真夏や真冬じゃないので、その庭仕事をやるにもいい季節なのだけど、という緩い感じが朝寝のぐだぐだした感じとうまくシンクロしていい感じ。

(句帳から)

あれもこれも了へたつもりの朝寝かな
花屑や看板にはりついたまま

第94回深夜句会(2/25) [俳句]

順番を間違えて、第95回の記録をさきにアップしてしまった。あわてて第94回の分を。

(選句用紙から)

でめきんの眼にやはらかく春の水

季題「春の水」で春。水槽に飼われた出目金の、その目にも、目のまわりの水にも等しく春の日が降り注いでいている。もともと水の中にあって大きく見えるのだけど、目の周りでゆらゆら揺れている水が、春の日をうけてことさらにやわらかく感じられる。こういう詩情はいいですね。

押し合うて横向くもある田螺かな

茶色とも黒ともつかない巻き貝であるタニシが、どこか狭いところにひしめき合っているさま(想像?)がまず面白いのだけど、その一部がはみ出して、横を向いたりしているのだろうか。そっぽを向いているような。

(句帳から)

屋根の色うつすら見ゆる春の雪
風をはらむビニールシート春寒し

番町句会(3/11) [俳句]

20160311.jpeg

職場を出るのが遅れ、締切に間に合わない事態に。不在投句もしていなかったので、俳句人生(?)35年間で初めての「選句のみ参加」となった。
まぁ普通なら、締切に間に合わない時点で参加をあきらめ、帰ってくるわけだけど。

(選句用紙から)

車椅子を押して屋上山笑ふ

季題「山笑ふ」で春。病院とか老人ホームのような場所が想像されるが、そこから遠くない場所に山があって、車いすの人にも、それを押す人にも木々の芽吹きや枝が風で揺れるさまが見えている。大都会のど真ん中でなく、まぢかに山が見えるような郊外とか地方の風景なのだろう。ところで「山眠る」「山装ふ」だったらどうか。これはこれで、だいぶ肌合いの違う詩として成立する。

山門は足場を組みて雪解富士

季題「雪解富士」で夏。これも作者と富士との距離が鑑賞の鍵になる。遠くからだと、富士の雪解けの状況がわからないし、ものすごく近ければ目の前の風景すべてになってしまうわけだから、富士の麓にある町の、そのお寺であろう。足場を組んで改修をするのだけど、その山門のむこうに、雪解けのはじまった富士がおおきく見えている。「足場を組んで」が、いま進行中あるいはこれから進行する一定の時間を示しているのに対して、「雪解富士」は時々刻々変化する富士山の「現在」を切り取っている。

 

第95回深夜句会(3/10) [俳句]

あと5回で通算100回!

(選句用紙から)

春雨や電柱の根を黒うせり

沛然と降る夏の雨だったら、電柱の根が濡れているどころではないだろう。春の弱い雨が、一様にではなく、電柱の根元の、舗装道路に近いあたりを黒く濡らしている。誰もが見ている風景なのだけど、それを切り取ってくるかどうかは、眼前のたくさんのものを虚心坦懐に見据えられるかどうかにかかっている。

地虫出づ天然痘の絶えし世に

季題「地虫出づ」で春。「地虫穴を出づ」「地虫出づ」「蟻穴を出づ」「地虫」はいずれも啓蟄の傍題とされる。ちなみに「地虫鳴く」は秋。
虚子に「蛇穴を出て見れば周の天下なり」の句があるが(『五百句』明治31年)、地中で冬眠していた虫や蛇が春になって外に出てきたら、世界は一変していた、という点では共通するものがある。この句の面白いところは、一応根絶されたことになっている天然痘を詠むことで、この地虫に禍々しい役割−もう一度天然痘を運んできた−を与え、ちょっとホラー映画の冒頭のような読み方もできるところではないだろうか。

(句帳から)

いちめんのキャベツ畑に春の雪
春の霧濃し駅員のアナウンス
駅裏の英語学校春寒し

夏潮新年会(2/21) [俳句]

去年は発熱でぶっ倒れて参加できなかったので、久しぶりの参加。

(選句用紙から)

あたゝかや二百号とて遠からず

季題「暖か」で春。百号のお祝いをしながら、8年後に来る二百号をもう射程に収めて、それまでにあんなこと、こんなことをやりたいと考える前向きな、こころがせくような気持ちと、「暖か」という季題―長い冬のあとでやってきた春を歓ぶ気持ち―がよく響き合っている。会場に78人もいたのに、誰もこの句を採らなかったのが不思議。

釣堀の外に釣り人草萌ゆる

釣り堀に釣り人がいるのは当たり前。釣り堀の「外に」釣り人がいるから面白い。この描写から、川とか沼とか掘割の一部を区切って設けられた釣り堀であることもわかる。

(句帳から)

紅梅や三代続く歯科医院

番町句会(2/12) [俳句]

もう2月。毎日がどんどん過ぎていく。

(選句用紙から)

単線を載せて法面下萌ゆる

法面は「のりめん」と読む。ことばの由来は知らない。今ならコンクリートの高架橋で通すような場所を、土手(築堤)で線路が通っている。土を盛っているので、台風で流されて、レールと枕木が宙づりになったりするのだけど、その土手の斜面に、夏になら草ぼうぼうのところ、いまは一面の枯れ草で、しかしそのところどころから、新しい芽が萌え出ている。土手が「単線を載せている」と捉えた面白さ。しかも、理屈をいえば、単線なので土手の幅が狭く、ぽつんと突き出た感じがより強いのですね。


草萌のここの真下に破砕帯

河原とか野原とか、ともかく草萌の景色を詠んでいるのだけど、その真下に、そういえば破砕帯があるんだった、とこれはまたなんとも不穏な。地上の「草萌」という季題がもつ明るい生命力と、地下の「破砕帯」の暗いまがまがしさとの間にある、巨大な落差。詩というもののひとつのあり方をここに見ることができる。それでもなお、一句の中心は「草萌」にある。

(句帳から)

死に絶へし家のミモザの黄色かな
閉ざされし窓の向うの大試験
隣村との境まで山焼ける
春寒やホームに白い杖の音

第93回深夜句会(1/14) [俳句]

(選句用紙から)

納めたる札に重ねし納札

新しい御札をいただいて、前の御札をお納めするのだけど、その箱に、乱暴に放り込むのではなく、前の人が納めた札の上に重ねて帰ってきた。それだけといえばそれだけのことなんだけど、その動作が「お札を納める」という季題を、十分に、しかしわざとらしくなく表現している。

下萌のつややかにして土かぶる

生まれたばかりの下萌、土をおしのけて出てきた色のつややかさと、その土の色の対比が美しい。

(句帳から)
水鳥を浮べしままに湖暮るる
初御空沖の船まで晴れ渡り
森の木の影絵となつて初茜

番町句会(1/8) [俳句]

(選句用紙から)

梓に上せたきはこれこれ春を待つ

季題「春待つ」で冬(晩冬)。「待春」とも。
家族か研究仲間か、ともかく話し相手との間で、今度上梓したい本の内容はこういうもので…という話をしている。すぐに実現するのか、あるいは実現しそうもないのか、いずれにせよそれが日の目を見て書籍となって世に問われるのを「待っている」、その「待っている」と、春を「待つ」気分とが響きあっている。

初空の富士を起点の飛行雲

季題「初空」で新年。
初御空に一筋、飛行機雲がいま白い線を引いたように伸びていっている。その飛行機雲の白線をずっとさかのぼっていくと、それは富士山の近くのある一点から始まっていた。東京あたりからだと、富士山はかなり遠くにあるので、「富士を起点の飛行雲」にはならないのだと思うが、もっと富士山に近い、御殿場とか富士吉田あたりから眺めると、「富士山の手前からずっとこちらに伸びてくる飛行機雲」という風景は実感できるかもしれない。

(句帳から)

寒鯉につれて水面の動くかな
お飾を掲げ透析送迎車
会社抜け出し焼きりんご食べにゆく
朝までの勤務を終へて初電車

番町句会(12/11) [俳句]

(選句用紙から)

一刷毛の雲を浮べて冬の空

「一刷毛の」といったら秋の雲のように思うのだけど、それがきょうは冬の空にすっと浮かんでいた。空一面の雲とか、塊となってむくむく盛り上がる雲ではなく、すこしかすれた刷毛でさっと描いたような薄雲が、冬の青い空をちょっとしたスピードで動いていく。

餅搗や一臼の他任せたる

季題「餅搗」で冬(12月)。一人で餅をつく人はいないので、親戚かご近所か、いずれにせよ大人数で餅搗をするのだけど、その餅搗の、最初の一臼(餅搗き機でなく、臼と杵で搗いているということですね)だけ加わって、あとはみなさんに「お任せ」したというので、作者はそれなりに年かさの、その場のリーダー格なのだろう。「いや最近腰がどうも…」などというセリフが聞こえてきそう。

(句帳から)

湯豆腐や甚だ頼りなき会話
平野まで迷ひ出でたる冬の雲
短日やばたんと閉まる改札機
里山の地肌の見ゆる冬木立
楮蒸しながら限界集落と
紙漉いて差し込んでくる朝日かな
→紙漉に差し込んでくる朝日かな


第92回深夜句会(12/10) [俳句]

今年最後の深夜句会。

(選句用紙から)

ともしびのあたたかさうに枯野かな

季題「枯野」で冬。枯野の中の灯火は、ぽつんと家が建っているのだろうか、それとも枯野の中の道に街灯がともっているのであろうか。「ともしびのあたたかさうに」と言っておいて、でも季題が枯野であるということは、真っ暗ではなく、ある程度枯野の姿が見えているということではないかと。その半面、灯火が暖かそうに見える程度には薄暗いということでもある。

出席者どうしで「この枯野はどのくらいの広さなのか?」「そもそも枯野って、ある程度広くないと枯野とはいわないのでは?」「たとえば100平米ぐらいの空き地は枯野っていわないよね?」「じゃあ何というの?」「冬野でしょ」などと議論が盛り上がる。

海臨む丘の形に大根畑(だいこばた)

季題「大根畑」で冬。上五の「海臨む」がちょっと窮屈な感じは否めない。「海に向く」か、字余りにして「海に臨む」かなあ。急峻な山間地ではなく、海に向かって丘陵がずっと連なった地形なのですね。その丘の形どおりに、緑色のぽつぽつすなわち大根畑が広がっている。海を含めた広がりのある明るい風景。

(句帳から)

庫裏からの咳の聞こゆる読経かな
夕時雨むかし暮らしてゐた町に
赤い実の赤の度が過ぎピラカンサ

番町句会(11/13) [俳句]

4か月ぶりの番町句会。締切前に亥の子餅(=季題である)をいただく。
きょうのお題は「時雨」。
亥の子餅.jpeg

(選句用紙から)

朝のカフェ十一月の香りして

いろいろな鑑賞ができるが、通りに面した窓際の席とか、あるいは外に設けられた席と考えると面白いかもしれない。コーヒーの香りとかエスプレッソマシンの音自体は一年中そこにあるのだとしても、それをとりまく町の音や人の姿、空気の冷たさは日々違っているのですね。十一月のよく晴れた朝、冷たい風と明るい光のなかでコーヒーや紅茶をいただく気分が全部合わさったものが「十一月の香り」なのだろう。

酉の市熊手買ふ店替へてみる

すこし哀しく、詩情あふれる一句。酉の市には縁起ものの熊手を売る露店が連なっている。作者は毎年その神社に詣でて、酉の市の同じ露店で熊手を買っていたのだろう。今年も酉の市へやってきて、さていつもの店で買おうと足を向けかけたのだけど、しかし、ことし一年あまりよいことがなかったのであろう、ふと、違う露店で買ってみようかと思い直したというのである。買う店を替えたところで、それがどうという話でもないことは自分でもわかっているのだけど、でもそんなちょっとした気分に、酉の市の雑踏と、年末をすぐ後に控えた一年間の思いというようなものが凝縮されていて、でもベタベタしていない。

(句帳から)

帳簿やらコピーやらあり風邪薬
亥の子餅楕円形して同じ向き
村外れまで追つてくる時雨かな

第91回深夜句会(11/12) [俳句]

(選句用紙から)

フラダンス奉ぜられたる酉の市

季題「酉の市」で冬(11月)。酉の市を訪れてみると、奉納と称して境内で奏されて(演ぜられて)いたのは、お神楽でも盆踊りでもなく、フラダンスだった。
花園神社とか大鳥神社とか、まあ露店が連なってたいへんな盛況になるわけなのだけど、フラダンスが奉納されるような神社というと、地元の小さな「なんとか鳥神社」とか「なんとか鷲神社」とかそういう村社のようなところなのだろうか。で、フラダンスといったって、場面からして「フラガールズ」のような組織だったものではなく、地元の高齢のご婦人がたが趣味のサークル活動で練習しているようなフラダンスであると思われ、その脱力具合と「酉の市」とが奇妙な距離感(地元感とでもいうのか)を醸し出している。

冬に入るよき品物をただ眺め

季題「冬に入る(立冬)」で冬。
「よき品物」が何であるかは語られていないが、「ただ眺め」られている「よき品物」といえば、家の棚に置いてあるのではなく、銀座あたりのショーウィンドーに麗々しく飾られている宝飾品とか美術品のようなものだろうか。この作者はそれを、ただ眺めているという。もともと大した興味もないのかもしれないし、そうした「よき品物」をむしろうとましく感じている。その少し倦み疲れた感じが、立冬のころの町の風景をよく描いている。これが「立春や」「夏に入る」「秋立つ日」だったら、全然面白くないわけで。


(句帳から)

寒林の奥に家あり牛舎あり
陸橋をまたぐ陸橋夕時雨

第90回深夜句会(10/8) [俳句]

めでたく第90回。計算上は来年の8月に100回を迎えるのだけど。

(選句用紙から)

秋風に喰ふトンカツの肉白し

季題「秋風」。秋風が感じられるような場所で食事をしているのであろうか。衣の上からソースをかけたトンカツを食べてみると、その肉がことさら白っぽく感じられた。
…ということなのだけど、この句の面白いところは、最後まで何だかわからないまま引っ張っていって、意外な落とし方をするところにある。
秋風に(ほうほう)
喰ふ(何を?柿食えばとか?)
トンカツの(うん?トンカツ?いったい何の句なのかな?)
肉(肉?肉がどうなるの?)
白し(「白し」ってあんた薮から棒な…しかもこれ、「石山の石より白し秋の風」ではないですか。最後にこういう落とし方をするのですか)
しかし、季題がどこかへ行ってしまっているかというとそうではなく、やはり「秋の風」が一句の中で中心とまでいかなくても重要な要素になっていることに変わりはない。「秋の風」といえばこう、というお約束をいったん離れて、自分の目の前にある「秋の風」をひたすら見つめつづけた結果だから、ふざけた感じがしないのだ。

秋晴や芝にトーマス走らせて

季題「秋晴」。トーマスは、ごぞんじ機関車トーマスなので、これは何かのイベントでミニSLみたいなものが子どもを乗せて走っているのか、それとも機関車トーマスのおもちゃを芝生の上で動かしているのか、いずれにしても「芝に」が決定的にいいのですね。トーマスが走っている風景って、やはり葛の原とか芒原じゃなくて、牧草地とかヒースの丘とか、そういう世界なわけで。

(句帳から)

赤い実のみな空を向き花水木
表札の旧町名よ萩の家
ご城下に水路あまねし豊の秋


第89回深夜句会(9/17) [俳句]

(選句用紙から)

夜の明けて日の暮るるまで秋の雨
右側の畑は低く蕎麦の花

(句帳から)

屋上の洗濯物の爽やかに
担ぎ手に神輿に夕日在祭

第88回深夜句会(8/27) [俳句]

(選句用紙から)

此処何が建つてゐたつけ秋の風

季題「秋の風」。大草原の一軒家なら「此処何が建つてゐたつけ」にはならないので、建物が立ち並んだ場所で、それも住宅地なら住宅が建っていたに決まっているので、商店街のような場所が想像される。
この場合、、蕎麦屋とか本屋とかタクシー会社の営業所なんかがあった場所が更地になって秋風が吹いている、いわば「秋の風」という季題とつきすぎともいえる風景が想像される。ただ、商店街ということから、アーケードが歯抜けになり、そこだけ外の光が差し込んで風が吹き抜けている風景であるようにも見える。そうすると「秋の風」は生き生きとした描写として捉えるべきと思う。

軽トラの荷台に供物門火焚く

季題「門火」で秋。農家の庭先であろうか、お供物は門の中に停められた軽トラの荷台に置かれている。亡くなった父親も爺さんも、その軽トラで畑へ出ていたのかもしれない。

(句帳から)

コンビニのビニールパック入り荢殻

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