So-net無料ブログ作成
本と雑誌 ブログトップ
前の20件 | -

宗教改革がわかる20冊 [本と雑誌]

きょう10月31日は、「宗教改革500周年」の記念日なのだそうで、キリスト教出版販売協会(そういう団体があるのですね)から発表された「これだけは読んでおきたい・宗教改革がわかる20冊」というリストが面白い。
しかしこのリスト、発表元のプレスリリースにリンクを張っておくべきところなのだけど、検索しても見つけることができないので、ご紹介くださっている方のツィッターに張らせていただいた。下の文字は画面を見て手で入力しているので、間違いがあったらごめんなさい。

ちなみに、1冊も読んだことないのですが(汗)

【初級】
「まんが キリスト教の歴史」(樋口雅一作・絵、いのちのことば社、2008)
「学研まんが NEW世界の歴史6 ルネサンスと大航海時代」(南房秀久原作・城爪草絵、学研プラス、2016)
「図説 宗教改革」(フクロウの本)(森田安一、河出書房新社、2010)
「マルティン・ルター―ことばに生きた改革者」(岩波新書)(徳善義和、岩波書店、2012)
「聖公会が大切にしてきたもの」(西原廉太、教文館、2016)

【中級】
「はじめての宗教改革」(G.S.サンシャイン/出村彰・出村伸訳、教文館、2015)
「プロテスタンティズム―宗教改革から現代政治まで」(中公新書)(深井智朗、中央公論新社、2017)
「プロテスタンティズム―その歴史と現状」(F.W.グラーフ/野崎卓道訳、教文館、2008)
「イースター・ブック―改革者の言葉と木版画で読むキリストの生涯」(マルティン・ルター/R.ベイントン編/中村妙子訳、新教出版社、1983)
「ルター自伝」(マルティン・ルター/藤田孫太郎編訳、新教出版社、2017)
「ルターから今を考える―宗教改革-500年の記憶と想起」(小田部進一、日本キリスト教団出版局、2016)
「ルターのりんごの木―格言の起源と戦後ドイツ人のメンタリティ」(M.シュレーマン/棟居洋訳、教文館、2015)
「キリスト者の自由―訳と注解」(マルティン・ルター/徳善義和訳、教文館、2011)
「マルチン・ルター―原典による信仰と思想」(徳善義和、リトン、2004)

【上級】
「牧会者カルヴァン―教えと祈りと励ましの言葉」(J.カルヴァン/E.A.マッキー編/出村彰訳、新教出版社、2009)
「ジャン・カルヴァンの生涯(上・下)―西洋文化はいかにして作られたか」(A.E.マクグラス/芳賀力訳、キリスト新聞社、2009・2010)
「宗教改革の物語―近代・民族・国家の起源」(佐藤優、角川書店、2014)
「総説キリスト教史2 宗教改革編」(新井献・出村彰監修、日本キリスト教団出版局、2006)
「プロテスタント思想文化史―16世紀から21世紀まで」(A.E.マクグラス/佐柳文男訳、教文館、2009)
「カルヴァン 歴史を生きた改革者―1509-1564」(B.コットレ/出村彰訳、新教出版社、2008)

nice!(0)  コメント(0) 

エリザベス・ストラウト『オリーヴ・キタリッジの生活』(小川高義訳、ハヤカワepi文庫) [本と雑誌]

olive.jpg

初めて読む作者なのだけれど、こういう心理描写があるのですね。見た目には大した事件も起こらないメイン州の田舎町の、1人の女性の周囲にこのような善意・悪意・怒り・嫉妬・愛情・無関心etc.が渦巻いている。それらの一つ一つが、いかにも納得させられるものでもある。読み進めるうちに、この女性(だけ)が特異なのではなく、どんな人の周囲にも、程度の差はあれ同様のことがあるのではと感じさせる。

繊細なようでもあり無神経のようでもあり、臆病にも傲慢にも受けとれるように描かれているため、単純な共感とか反発ができないところは、ちょっと三浦しをんに通じるものがあるかもしれない。

また、こういう作品を高く評価する(ピューリッツァー賞)アメリカのフトコロの深さも同時に感じさせる。日本語では他に『バージェス家の出来事』と『私の名前はルーシー・バートン』の2作品(いずれも小川高義訳、早川書房)しか読めないのが残念。

 


nice!(0)  コメント(0) 

アリス・フェルネ『本を読むひと』(デュランテクスト冽子訳、新潮社、2016) [本と雑誌]

grace.jpg

こういう本を書くのはとても難しく、一歩間違えれば上から目線で「フランス万歳、フランス語万歳」的な啓蒙本になってしまいそうだけど、そこがそうならないのがこの本の奥深いところ。

思うに、この本の読みどころは三つある。

一つには、「どちらの側も、均一平板ではない」こと。「どちらの側」という対立の図式自体が適切かどうかわからないが、ジプシーも、それ以外の人々も、一人ひとりに考えがあり、決して均一ではないところがストーリーに立体感と納得性を与えている。たとえば野菜畑の所有者であった老教師の考えかた、キャンピングカーを出て定職につくヘレナの考えかたなどなど。

もう一つには、「どちらの側も、ある部分は変わり、ある部分は変わらない」こと。本を読んだり、学校に通ったりすることについては、どちらの側でも、しだいに事態がうつろい、これまでになかったようなことが起こっていく。他方で、ジプシーの生活の根底にあるものや、地域社会の行動原理のようなものは、良くも悪くも変わらない。

三つ目には、死をどのように描くかということ。
本書における死の描かれ方は、ものすごく目新しいものではないが、それが登場人物の物の考え方や行動様式と整合するように描かれているので、その人の人生の終わり方として、それが悲惨なものであっても、そうかもしれないなと思わせるものがある。

ちょうどフランス大統領選挙の時期にこの本を読み、フランスの社会が20年にわたるロングセラーとしてこの本を支持してきた理由を考えると、それは「そういう課題が存在する」ことを社会が認知しているからに他ならず、そしてこのような課題がはらむ緊張関係や拮抗する力―それは復元力につながる―こそが、フランスの力を構成するひとつの要素ではないかと感じられる。


岩波文庫創刊90年記念「私の三冊」(『図書』臨時増刊) [本と雑誌]

古今東西の名著が母語で読めるのはとてもステキなことだと思うので、日本スゲー派のひとびとは、岩波書店の刊行物を(少なくとも岩波文庫を)もっと誇りに思ってもよさそうなものだけど。

いつもの通り、「各界を代表する皆さまに」アンケートをお願いしたもので、
今までに読んだ岩波文庫のうち、
・今日なお心に残る書物は何か あるいは
・ぜひとも他の人びとにも勧めたいと思われる書物は何か
三点を選び、あわせてそれぞれに短評を書き添えてほしいというもの。

読者としては「ああ、この人がこんな本を選んでいるのね」と楽しみに読むのだけど、「この人なら、そりゃ確かにこれを選ぶだろうね」という順当な(従って面白くない)選択もあれば、「えっ、この人がこんな本を推しているのか」という驚きの選択もある。

後者の例として、坪内祐三氏が『オーウェル評論集』を挙げていること。坪内氏が開高健を愛読していたら、その開高健がオーウェルのエッセイの素晴らしさについて語っていたので、それが日本語で読める日を待っていたと書かれているのだが、坪内祐三氏とオーウェルはどうにも結びつかないし、オーウェルの評論のかなりの部分は岩波文庫に収録される以前から日本語で出版されていたわけなので、この回答は何だかよくわからない。

選ばれた本のなかでは、自分だったら最初に挙げるであろう『自省録』を6人もの人が挙げていることが少し嬉しい。ちなみに宇野重規さん、清家篤さん、旦敬介さん、野崎歓さん、山口範雄さん、四方田犬彦さんの6人。

では、このアンケートのように3冊挙げよと言われると、上掲『自省録』以外の2冊は何になるのか、ちょっと迷う。
入りそうなものとしては、『アメリカのデモクラシー』『暗黒日記』『イギリス名詩選』『石橋湛山評論集』『イスラーム文化』『オーウェル評論集』『虚子五句集』『三酔人経綸問答』『ベートーヴェンの生涯』『福翁自伝』『森の生活』『闇の奥』『ロビンソン・クルーソー』『忘れられた日本人』あたりか。もっとも、『ロビンソン・クルーソー』は岩波文庫でなく、岩波少年文庫で読んだのだけど、結構難しかった記憶が。

3冊セットとしての選択がもっとも自分に近いものとしては、
片山善博さんの『生の短さについて』『石橋湛山評論集』『福翁自伝』
清家篤さんの『文明論之概略』『寺田寅彦随筆集』『自省録』
って、どちらも慶応義塾にご縁のある方ですな。

もっとも、回答者の多くは80周年や70周年のときにも同様のアンケートを求められていると思うのだけど、その際の答えと今回の答えがそんなに変わる性質のものとも思えないので、どうやって回答に新味を出そうとしているのか、それらを照らし合わせて読んでみたい気もする。

増田俊也『七帝柔道記』(角川文庫、2016)【ネタバレ注意】 [本と雑誌]

nanatei.jpg

「初めての作家」3連発の最後に、すごい作品に出合ってしまった。早くもことしのベスト1確定かもしれない。ページをめくりながら、終わりに近づくのがもったいない思いをするのは久しぶり。

舞台は札幌、時代は昭和の終わりごろなのだけど、こういう世界が実在したのですね。"想像を絶する"という陳腐な表現しか思い浮かばないぐらいすごいことが、ふつうのキャンパスライフ(死語?)を送る一般学生のすぐ隣で行われていることに、まず驚く(体育会の他の部との比較も描かれているので、体育会だからということではないでしょう)。柔道部員の一人ひとりのキャラクターも、ていねいに描かれていて楽しめる。

かといって、選び抜かれた人々が世間から隔絶された高みですごいことをやっている、という描かれ方ではなく、ときどき出てくるふつうの学生やふつうの市民(これがまた魅力的)とのやりとりに、何ともいえない味わいがある。

また、小説としてすごいところは、凡百の青春小説にありがちな、そこそこのハッピーエンドをまったく用意していないところ。むしろ、どん底ともいえる状態で終わっている。それにしても、こういう終わり方ってありなんだろうか。未回収の登場人物や挿話がいくつかあるし…と思いながら解説を読むと、一応続編があるのですね。これは一刻も早く読みたい。

小説といっても作者の実体験を描いているので、エピソードの積み重ねに不自然さがなく、とても受け入れやすい。こうした場合、むしろ無数のエピソードのどれを採り、どれを採らないか迷うと思うのだけど、よく考えて選ばれているようで、「あるべきエピソードが、あるべき場所にある」感じがする。作者自身の経験が作品化されたという成り立ちは藤谷治さんの『船に乗れ!』とも共通しており、描かれている世界は全然違っても、特異な求心力という点では同じ印象を受ける。

 



生への列車・キンダートランスポート(『世界』2017年3月号) [本と雑誌]

細野祐二さんの「東芝・債務超過の悪夢」を読もうと思って買ったのだけど(いゃ、そっちも面白い内容だったのだけど、「正味運転資本調整」のところがよくわからない(財務諸表論では出てこなかったのだけど、最近のルールなのか、それとも会計士さんしか知らないルールなのかな?)ので、ちょっと引っかかる)、戦前戦中のドイツでこんなことが行われていたとは知りませんでした。あの時代状況で、危険を顧みずというべきか、すさまじい行動力というか、頭が下がるとしかいいようがない。

クエーカーの人々のプレゼンスというのは、イギリスやアメリカではむろんのこと、大陸においても、これほどに大きなものなのですね。

丸山正樹『デフ・ヴォイス 法廷の手話通訳士』(文春文庫、2016) [本と雑誌]

deaf_voice.jpg

「初めての作家」をもう一冊。
何でも置いてあるような超大型店はともかく、理屈からいえばすべての本屋さんはセレクトショップなのだけど、その中でも特に、狭いお店に店主が選り抜いた本を並べているような、セレクトショップ型の本屋さんで求めた一冊だが、読みごたえのある内容。

一応ミステリーの体裁をとっているけれども(実際、ミステリーとしてもよくできた作品だと思うけれども)、ろう者やその家族のおかれた現実を理解するにはよい入門書でもある(「日本手話」と「日本語対応手話」の違いなど、本書で初めて知った事実も多い)。問題の所在が整理でき、それぞれの人々の立ち位置もよくわかるのですね。そして、主人公のような属性をもつ人が、「自分は何者なのか」と自問し、「敵か味方かとかどちら側とか、そもそもそういうことではない」という結論に至る過程もよくわかる。
特に、この主人公(と同じ属性をもつ人)でなければわからないことがら、とりえない行動などが描かれ、それが本書を説得的なものにしている。

そのため読後感は、根本的な問題が解決していない点では重く、しかし登場人物のそれぞれが階段を一段のぼって次のフェイズに進んだ点では日差しが差し込んでいるような明るさを備えており、作品全体の厚みともいえる余韻を醸し出している。


柚木麻子『本屋さんのダイアナ』(2016、新潮社) [本と雑誌]

diana.jpg

解説で紹介されていた有名な少女小説との対比を意識して読むのが本筋なのかもしれないが、そういう本歌取り的な楽しみ方に限定しなくても、完全に独立した作品として十分楽しめる(むろん解説にも、そのように書いてあるが)。

ひとつは、この物語を成り立たせている重要なポイントである「見かけ上同じことがらについて、AさんとBさんの受け止め方が正反対」という現象について、読者に違和感なく了解させる筆力が、エンターテインメントとして十分楽しめる点(この点に関して付言すれば、描写がとても映像的で、ストーリーに直接関係ない細部まで描きこまれていて、ちょっとテレビドラマを思わせる)。

もうひとつは、登場人物が年齢ととともにどんな本(実在の本と物語中の架空の本が登場するが、ここでは実在の本)を読んでいるかが示され、それが登場人物を修飾する記号として有効に機能している点。また、この点に関連して、主要な登場人物の全員が、本や図書館、本屋さんを愛している点。

この作家を読むのはこれが初めてなのだけど(書店の店頭で『早稲女、女、男』と迷ってこちらを選んだのだけど)、なかなか面白かったので他の作品を読んでみたい。

加納朋子『我ら荒野の七重奏』(集英社、2016)【ネタバレ注意】 [本と雑誌]

septet.jpg

評判の高い新刊なのだけど、なじめなかった。理由は三つ。
・説明になってしまっていること。
・最後の設定(ちょうどぴったりな曲が見つかること)が都合よすぎること。
・音楽(楽曲)に対する思い入れが感じられないこと。

お芝居でいうと、役者さんの台詞や動作で表現してほしいことを、ト書きで一から十まで説明されている感じ。うん説明はわかったから、それで何がどうなるのかと期待して待っていると、説明だけで終わってしまう。説明を全部取り去ってしまって、台詞だけ残しておいても伝わらないものだろうか。そこを伝わるように書くのが作家の力量というものではないかと。

小説なので、どのような設定でも別にかまわないのだけど、弦楽四重奏ならともかく、木管七重奏の曲がそう都合よく転がっているわけがないでしょう。結局、設定が無理だと読者が共感できないので、小説の魅力を損なってしまうことになる。残念。

息子の演奏に涙を流す母親が何度も描かれるのだけど、それがどんな曲なのかほとんど描かれていないので、共感できない。ファゴットのソロはどんなメロディーでどのくらい続くのか?ホルンやクラリネットはどうしているのか?そもそも短調なのか長調なのか?ほとんどわからない。これでは、やはり思い入れの余地がない。音楽の解説書ではないので曲の内容に深入りする必要はないにしても、どんな曲をどんなふうに演奏しているのかわからないのは、吹奏楽を題材にした小説としては、やはり物足りない。


横田庄一郎「チェロと宮沢賢治―ゴーシュ余聞」(岩波書店、2016) [本と雑誌]

gauche.jpg

「セロ弾きのゴーシュ」といえば、宮沢賢治の童話の代表作のひとつである。そしてその作者である賢治は、たいそう音楽好きであって、自らもチェロを弾こうとしていたことが知られている。本書は、賢治が実際に、どのくらいチェロを弾きこなしたのか、上京して手ほどきを受けたというが、それはどのような状況だったのか、といった「宮沢賢治とチェロ」にしぼった論考で、大変面白く読める。

生前の賢治を知っている人々が存命のうちにこうした記録を残しておくことは、賢治の正確な姿(神格化されず、また不当な取り扱いもされない)を知るためには重要なことで、文学者や文芸評論家でなく、音楽について詳しいジャーナリストがこのように丹念に取材を重ね、記録を残してくれた(初版は1998年で、本書は岩波現代文庫からの再版である)ことに感謝したい。

本書の指摘ではっとさせられたのは、「セロ弾きのゴーシュ」についての、次の部分である。
(以下引用。128ー129頁)
------
このあと仲間のみんなが「よかったぜ」とゴーシュにいうと、向こうでは楽長が「いや、からだが丈夫だからこんなこともできるよ。普通の人なら死んでしまふからな」といっていたと、賢治は書いている。
ゴーシュはからだが丈夫だからできたのだが、賢治はあれほど熱中したチェロの独習半ばに病に倒れ、そうなることを夢見ながらもとうとうできなかった。唐突に出てくる「普通の人だったら死んでしまふからな」というくだりは、まさに死んでしまう賢治が書いているのである。普通の人とは、これを書いた賢治自身のことではないか。死ぬ少し前まで『セロ弾きのゴーシュ』の原稿に手を入れていた(宮沢清六『兄のトランク』)ことを思い合わせると、このくだりには感無量という以外に言葉が見つからない。
------
(以上引用終わり)

賢治は、死の直前までこの作品に手を入れ続けていて、現在われわれがよく知っている文面は、その最終形だというのだ。
もしそうだとすると、確かに、物語の終わりちかくにあるあの一節は、ニュアンスが全く違ってくる。
校本全集をあたって、まず、現在われわれが目にする文面をもう一度確認。

(ここから引用。「校本宮澤賢治全集第10巻」(1974、筑摩書房)219-234頁)
----------------------------------------------------------------
「ゴーシュ君、よかったぞお。あんな曲だけれどもここではみんなかなり本気になって聞いてたぞ。一週間か十日の間にずいぶん仕上げたなあ。十日前とくらべたらまるで赤ん坊と兵隊だ。やろうと思えばいつでもやれたんじゃないか、君。」
 仲間もみんな立って来て「よかったぜ」とゴーシュに云いました。
「いや、からだが丈夫だからこんなこともできるよ。普通の人なら死んでしまふからな。」楽長が向うで云っていました。
---------------------------------------------------------------
(以上引用終わり)

この部分が、初稿では以下のようだったというのだ。

(ここから再び引用。前掲校本全集501-502頁)
---------------------------------------------------------------
「ゴーシュ君、よかったぞお。一週間か十日の間にずいぶん仕上げたなあ。十日前とくらべたらまるで赤ん坊と兵隊だ。やろうと思えばいつでもやれたんじゃないか、君。」 
仲間もみんな立って来て「おめでたうおめでたう」とゴーシュに云いました。
---------------------------------------------------------------

つまり、確かに「いや、からだが丈夫だからこんなこともできるよ。普通の人なら死んでしまふからな。」の一節は、初稿にはなくて、あとから加えられたものだったのですね。

それでは、初稿はいつ書かれ、あとからあの一節が書き加えられたのはいつなのだろうか。初稿は、賢治が病気で倒れる前に書かれ、病気になってからあの一節が加えられたのだろうか。
どうもそうではなく、初稿も病気になってからのようだ。前掲「校本全集」によれば、現存草稿32枚のうち22枚目には「東北砕石工場花巻出張所用箋」の裏面が使われているので、賢治のためにこの出張所が開設された1931年2月以降にこの部分が書かれたことは明らかである※。賢治はこの年の9月に東京へ出張中にで倒れて花巻に戻ってから再び病臥生活となり、1933年9月21日に亡くなっているのだけど、おなじ22枚目の表面には、1933年4月2日の同級会(同窓会)への欠席連絡の下書きが残っているという(483頁)から、この時期に書かれた可能性もある。そうすると、さきほど引用した箇所は全体の最後の部分、つまり草稿の31枚目と32枚目にあたるので、初稿が書かれた時点(1931年2月から1933年9月までのどこか)において、既に賢治は死を強く意識していたと思われる。そこへさらに、「いや、からだが丈夫だから…」と加筆して現在の形に修正した賢治の絶望感(といっていいのか)考えると、粛然とせざるを得ない。

(※ただ、この作品は必ずしも頭から順番に書かれたわけではなく、最初に書かれたのはねずみのエピソード、次が猫のエピソードの一部、三番目がかっこうのエピソード、四番目が猫のエピソードの一部、五番目がそれ以外の部分であることがわかっている)。

この他にも、冒頭でゴーシュをいびり倒す「楽長」のモデルがあの人――クラシックの世界では超有名なあの人――ではないか、とか、野ねずみのこどもが入った「チェロの孔」とは実は、とか興味深いエピソードがいっぱい。賢治ファンならずとも読んで損はない一冊。




祝・本の雑誌400号 [本と雑誌]

201610.jpg

この10月号で『本の雑誌』が創刊から通算400号に到達。いろいろな雑誌を定期購読したけど、ずっと続いているのは『図書』と『本の雑誌』だけ。
400号を単純に12で割ると、33年と4か月で達成できることになるけれど、途中までは隔月刊(さらにそれ以前は不定期刊)だったので、創刊から数えるとずいぶんな年月が経っている。書泉グランデ1階の平積みを手にとって「何だこの雑誌は!」と驚いたのが1983年なので、もう33年も前のことになる。

今月号で一番面白く、感心させられたのが堀井憲一郎さんの「岩波文庫〔緑〕の欠番を調べてみる」で、これは本好きの人なら誰でも、気にかかっているけどちゃんと調べる機会がないテーマといったら大げさか。何番が(=どの作家が)、いつ欠番になったのか(1927年の創刊直後なのか、ごく最近なのか)って、一出版社の品揃えの話ではあるが、作家の社会による受け入れられ方の変遷を表しているわけだから、調べたらすごく面白いと思う。逆に、どの作家がいつ岩波文庫に新たに収録されたか、も面白いだろう。この「ホリイのゆるーく調査」のコーナーは、ともかく単純なモノサシでどんどん調べていくところがいい。ちなみに自分がこれを調べろと言われたら、毎年の岩波文庫解説総目録をさかのぼって調べるのが正確なのだろうが、あの総目録って図書館に所蔵されているのだろうか。
それにしても、緑の1番って、仮名垣魯文だったのですね。知らなかった。

これに対して、坪内祐三氏の「変わりゆく出版社と変わらない出版社」でも岩波文庫の話が出てくるのだけど、こちらはみごとなまでに「主張はあるが、例示も根拠もないので理解不能」な代物なのだ。具体的には、

(ここから引用。21頁中段〜下段にかけて)
-----------------------------------------------------------
それから岩波書店もクオリティーを維持している。
いやむしろ、私の学生時代と比べて上っている。
特に岩波文庫。
私の大学時代、岩波文庫の新刊のレベルはひどかった。そのひどさを私は学生時代にミニコミ誌『マイルストーン』で書いたことがある(二十枚を超える大論文だ)。編集部に百円を越える切手を同封して手紙くれればそのコピーを送ってあげる。
ところがこの二十年ぐらい(ちょうど私が『週刊文春』に「文庫本を狙え!」の連載を始めた頃から)そのクオリティーが上り、しかもそれをキープしているのだ。『文庫本を狙え!』は出来るだけヒイキなく色々な文庫を紹介したいのだが、気がつくと岩波文庫に片寄ってしまう。
-------------------------------------------------------------------
(ここまで引用)

・私の大学時代って、いったいいつですか。「昭和40年代から50年代前半にかけて」みたいな書き方はできないのですか
・岩波文庫の新刊のレベルがひどかった、って、それ造本の話ですか、セレクションの話ですか。まあセレクションの話だと思うのだけど、たとえばどんな「ひどい」新刊を出していたのでしょう
・それを知りたい読者は、編集部まで100円を超える切手を送らないと教えてもらえないのですか
・で、20年前ぐらいからそのレベルが向上したというのだけど、これまたたとえばどんな新刊がそれに該当するのですか

例示も根拠も何もないので、合点がいかないし、これ読んで共感しろとか楽しめといわれても無理だ。
この雑誌の読者は、程度の差はあれ本を読むのが好きなのだから、坪内氏が何をもって岩波文庫を持ち上げたり落としたりしているのか、せめて表題を示せば、根拠は示されないにしてもそうだねとか違うねとか反応することができるのだけど、それさえないのでは、どうにもならない。
こんな与太話にどうして付き合わなければならないのだろう。

ジュリー・オオツカ『屋根裏の仏さま』(岩本正恵・小竹由美子訳、新潮社、2016) [本と雑誌]

JulieOtsuka.jpg

数ページ読む。読むのがつらくなって閉じる。しかし数分すると読まずにいられなくなり、また手にとる。
この繰り返しで、およそ150ページを読むのに2日かかる。

20世紀前半の一時期、海を渡って在外邦人にとついだ「写真花嫁」の物語が群像として描かれるのだけど、彼女たちは冒頭からさまざまな災厄にみまわれて次々に命を落としていく。ひとつひとつのエピソードは具体的かつ簡潔で、著者が丹念に取材をしたのだろうと思われる。それでも現地で子どもを産み、育て、ある者は安定した生活を得るのだけど、そこへ戦争がやってきて、ふたたび何もかも破壊される。126ページから10ページ以上にわたって続く「どのように去っていったか」の繰り返しは圧倒的な迫力。

この本を特徴づけることとして、まず、一人ひとりを美化しない、つまり悲劇のヒロインに仕立てようとしないことがある。彼女たちにせよ、自分たちにせよ、自らの身勝手さや、その時代の偏見から誰も逃れられない。それがかえって、リアリティをもたらしている。

また、相反するできごとやことがらが頻繁に語られ、人の心の難しさや不条理さを読み手に感じさせる。
たとえば、「日本に残してきた三歳の娘が、死ぬまで忘れられずにいる」のに、何十年も暮らしてきた地域のひとびとからは、1年も経たないうちに忘れられてしまう。
また、必死な思いで娘や息子を育て、教育を受けさせたのに、教育を受けたその子は、親のみすぼらしい服や、かまどの神様に手を合わせる習慣を見て恥じたり笑ったりする。
このアイロニーは切ない。

本文を読み終えたあと、訳者あとがきの最後の数行で、訳者(たち)にも「もうひとつの物語」があったことを知る。この尊いリレーがあって、自分はこの本が読めたのかと思うと頭がさがる。

本書は小説でもあり、ドキュメンタリーでもあるのだけど(いゃ、もちろん小説なのだけど)、言葉のリズムがそうさせるのか、なにか長編の詩を読んでいるような錯覚を覚える。
そして、読みおえた後も長くつづく余韻。まだ6月だが、今年のベスト1はこれで確定かもしれない。



乙川優三郎「ロゴスの市」(徳間書店、2015) [本と雑誌]

ロゴスの市.jpg

前作「脊梁山脈」では、骨太な物語に感心しつつも、サイドストーリーの分量の多さにやや集中力をそがれてしまったのだけど、これは誰かに紹介せずにはいられない、すばらしい作品。

仕事であれ私用であれ、外国語や知らない事物に立ち向かう人が感じるであろう感覚が、丁寧に描かれる。その感覚とは例えば、「目の前の海は美しく、泳いだら楽しそうだが、同時に恐ろしく深く、背がたたないどころか、どこに底があるのかもわからない」というような、畏れにも似た感覚である。そこで、これを乗り越えるべく、二人は「寝食を忘れて没頭する」のだが、その苦闘ぶり、それもカネや立身出世のためでなく、ただもうその「外国語」という相手に立ち向かうこと自体に没頭しているさまは、何やら適塾時代を描いた「福翁自伝」を連想させ、すばらしい。付言すれば、当節「自分の知らないことはとるに足らないこと、知る必要のないことであり、従って自分は何もかもわかっているのだ」と割り切ってしまえる人々が花盛りな状況への異議申し立てとしても、まことに共感できる。Scio me nihil scire.

第二に、知力の限りを尽くして長年にわたる戦いに挑んでいるその人自身が、ひとたび机を離れれば自分のような世俗の凡人と変わらぬ懊悩にさいなまれ、周章狼狽したりだらしなくなったりするさまが、親近感を誘う。

第三に、ことばの奥の深さともいうべきか、翻訳者や通訳のみならず、その源にある著者や話者自身でさえも「書籍として固定された、あるいは発言として記録された、その表現がすべてだとは思っていない」というメッセージに感じられることが奥深い。本書にも登場するジュンパ・ラヒリが、母語による著述であれだけの成果を収めたにもかかわらず、その後母語以外での活動に進んでいったことなども連想される。

また、これは前作にも通じるが、地味な情景描写の巧みさや、句点でも読点でもない「、」の使い方など、地の文がたいへん巧みで、間然とするところがない。手元に置いて何度も読み返したい一冊。

 
  

祝・100万部! [本と雑誌]

きょうの日経46面から引用

(以下引用)
-----------------------------
「理科系の作文技術」息長く100万部
中央公論新社は28日、物理学者、木下是雄さんの「理科系の作文技術」(中公新書)が発行部数100万部を突破したと明らかにした。1981年9月の初版刊行から、今年3月までの35年間で80回増刷されるロングセラーとなった。
-----------------------------
(以上引用おわり)

単に100万部売れたことでなく、35年かかって100万部読まれた点が快挙ですね。
同時代でこの本に出会ったことは、私のささやかな幸運のひとつかもしれない。この本(手元の控を見ると、1983年6月4日に大学生協で買い求めたことになっている)は、実務で書く文章の屋台骨となってくれた。また蛇足ながら、「実務文は実務文、文藝は文藝」とはっきり分けて考えることができるようになったのも、この本のおかげ。

 


エリック・ホッファー『波止場日記』(田中淳訳、みすず書房、2014) [本と雑誌]

eric hoffer.jpg

ホーフスタッターが『アメリカの反知性主義』を書くすこし前、西海岸ではこんな本が書かれていたのですね。描かれている思惟は、疑いもなく知識人のそれなのだけど、ホッファーが自分を単純に知識人の立場におかず、むしろ距離をおいて考えようとするところは、ソローやエマーソンに通じる現場主義的な思考方法を感じる。そのくらい、アメリカにおける知性主義対反知性主義のせめぎあいには難しいものがあるということか。

また、ホッファーのアジア観は、ウィットフォーゲルのOriental Despotismの影響を受けているように思われ、時代を強く感じる。ホッファーがもし今生きていたら、全然違ったアジア観を持っていたのではないかなあ。そうでもないか。省みれば、人為的災厄を自然現象のように表現してしまうという点において、ホッファーの指摘は今も十分に有効なのではないかと。

ヒュー・コータッツィ『日英の間で-ヒュー・コータッツィ回顧録-』(松村幸輔訳、日本経済新聞社、1998) [本と雑誌]

cortazzi.jpg

自分がイギリスおたくへの道を踏み出したころ、駐日英国大使はコータッツィ氏で、新聞やテレビでその名前を見聞きするたびに、ずいぶんとイギリスっぽくない名前だなあと思っていたものだけど、それから30余年を経て本書を読むと、その名前の由来とともに、当時さまざまな機会に行われていたイギリス関係のイベントのあれこれが背景を伴って説明され、大使自身がそのイベントを開発されたのですね、などと納得することしきり。

回顧録なので登場人物がたくさんいるのだけど、その特徴の第一は、イギリスの人であるか日本の人であるかを問わず、率直な人物評が併記されていること―なかには「史上最低の外相」とか書かれている人もいる―で、これは一つ間違えると上から目線の傲岸な自叙伝になってしまうのだけど、それがそうならないのは、特徴の第二である「まだ知らないことに対する氏の率直な好奇心」が全編にあふれているからである。

戦時中の英国における日本語教育については、大庭定男『戦中ロンドン日本語学校』(中公新書、1988)に詳しいが、イギリス政府は開戦前後にいち早く、日本語のできる者を大量に養成する方針が決定して、1942年5月にはロンドン大学に特別日本語コースが設けられ、政府給費生として集められた17~18歳の学生に対する日本語の特訓が開始されている。余談だが、日本における労使関係論の研究者として著名な―少なくとも労務屋稼業の間では著名な―ロナルド・ドーア氏もこのコースの卒業生である。

で、事実への率直な関心が氏にもたらしたものは大変大きいわけで、占領軍の将校としてやってきたのに温泉旅館を宿舎にしてしまうとか、好奇心由来の型破りなエピソードが山盛り。

吉田茂と直接対等に話をしていた人が存命であること自体がなんだか奇異に感じられるが、それは占領軍の将校という特別な立場がなせる技、つまり若くして日本の上層部と話ができる立場だったから(同年齢の日本人は、ヒエラルキーのずっと下にいたはずだから)で、そういう意味でもこの記録は貴重だ。
(予断だが、昨今妙に脚光を浴びている白洲次郎について「うさんくさい人物」と述べていることも興味深い)

ところで、そのコータッツィ氏が、近年の日本について苦言を呈していることは知られているところである。日本という国を長年見守ってくれて、日本を応援してくださっている(例えば、既に駐日大使を離任されていたにもかかわらず、昭和天皇崩御をめぐるイギリスのタブロイド紙のお下劣な報道に強硬に抗議してくださったことなど)こうした有識者の意見には虚心坦懐に耳を傾け、改めるべき点は静かに改めるべきなのではないかと。


森枝卓士「カレーライスと日本人」(講談社学術文庫、2015) [本と雑誌]

curry.jpg

面白い。

家庭だろうと町の食堂だろうと社食だろうと、日常的に私たちが親しんでいるカレーが、どのようにしてインドから日本までやってきて、日本でどのように取り入れられて定着したのかを丹念に追いかけていく。イギリスでカレー粉が誕生したいきさつを追究するため、大英図書館でさまざまな一次史料(なかには初代ベンガル総督ヘイスティングスの手紙なんていうものもある)を探し、ついには、イギリスの文献に初めてカレーが現れるのは、これまでの通説よりずっと早い1747年であることまで発見してしまう。

また、日本の社会にカレーが広く普及した理由は、それがインド料理でなくイギリス伝来の西洋料理(洋食)と受け止められていたからだ、という指摘(pp.210-12)は重要。この視点で考えると、ペルー料理でもモロッコ料理でもおいしくいただいてしまう現在の世相は、最近に至ってようやくそういうしばりが緩くなった結果ということになるのだろうか。

松本楼の話や中村屋の話も出てくるが、あの店がおいしいとかこの店はどうだとかいう本ではない。これだけ毎日のように食べているのに、その受容過程がほとんど知られていないことも不思議だが、それを明らかにしていく過程も、またドキュメンタリー番組を見ているような面白さがあった。それは、調べ物をお仕事として義務的にこなすのでなく、「知らないこと」を掘り下げてみたいという明快な好奇心が著者にあるからで、偏見をもたず虚心坦懐にずんずん分け入っていくその姿勢が、読者の共感につながるのだと思う。



須田桃子『捏造の科学者』(文藝春秋、2014) [本と雑誌]

stap.jpg

法律系の修士論文を書く院生は、概ね以下のようなことを指導教授から厳しく指示されると思う。

・学術論文の意義は、先行研究にわずかでも新たな知見を加えることにある。
(その「新たな」の程度は、修論と博論では大いに異なるが、いずれにせよ、新たな知見がなければ単なるレポートであって、論文とはいえない)
・法律のどの分野であっても、程度の差はあれ先行研究が存在するので、自分の論文のなかで「この部分は先行研究」「この部分は自分の議論していること」を峻別し、読者に明示しなければいけない。
・従って、先行研究を数多く引用することになるから、その際の表記方法は「法律文献等の出典の表示方法」(法律編集者懇話会制定)で統一すること。
・この方法に従わずに文献が引用された論文は、法律論文としての価値がないものとみなされる。
・出典を明記しないまま引用すると、先行研究を自分の議論として剽窃したことになるので、学術の世界では死刑。

実際に、自分が鉛筆を舐めながら修論を書いていた間にも、学会の重鎮が他の研究者のブログを「うっかり」自分の論文に使ってしまい、その論文を掲載した専門誌が刷り直しになるという事件が起きている。

で、そういうモノサシを念頭においてこの本に出てくるあれやこれや(強烈なのは、博士論文の「全体の五分の一にあたる約二十ページで米国立衛生研究所(NIH)のウェブサイトの文章を丸写ししていた」(本書P.324)事実)を検討すると、この件はもう、学術の尺度では測定不能な事案なのではないかと。ちょうど、キッチンスケールでは自動車の重量を測れないようなもので、あえていえば、この事件の本質は「詐欺」に近いように思われる。

その上で、本書で紹介される丹念な取材記録(こういう分野で「裏をとる」ことがどのぐらい大変か、想像もつかない)を読んだ上でもなお残る疑問は、
「なぜ小保方氏は、いずれバレるとわかっている嘘をつき続けたのか」
「なぜ笹井氏は、最後までSTAP細胞(という仮説)を支持し続けたのか」
という点だ。後者は、今となっては誰も答えることのできない疑問だが、このことが結局は、問題をいっそう混迷させてしまったように思われるだけに、残念(この本が、ではなく、こうした結果になったことが)だ。

ついでにもう1つ疑問なのは、ここまで話が進んでも、巷にはまだ小保方氏を擁護する声が多いこと。高齢の男性に多いような気がするのは私の気のせいですかそうですか。「STAP細胞は実在するのだが、その筋の圧力で抹殺された」とか笑ってしまうのだが、どう考えるとそういう陰謀論にたどり着くのだろう。

沼田まほかる『ユリゴコロ』(双葉文庫、2014) [本と雑誌]

これはまた一体なんというホラー…と思いながら読み進める。
しかし最後の20ページに、思わぬヒューマンドラマが。一気に読み終えて茫然自失。
大沢在昌氏が腰巻きに「読者をも企みにはめる、恐ろしい書き手」と書いているが。同意。

yurigokoro.jpg

青柳いづみこ「グレン・グールド 未来のピアニスト」(ちくま文庫、2014)【ネタバレ注意】 [本と雑誌]

gould.jpg

副題の「未来のピアニスト」ってどういうこと?と思いながら手にとったのだけど、驚きの連続。

あのグールドが、デビュー以前には抒情性あふれる演奏をしていたとは。歌うグールドっていうと普通、声に出して歌うグールドを思い浮かべるのだけど、鍵盤で歌い込むグールドもまた、もともとの姿だったのですね。
「グールドの原点はスタッカートではなくレガートだったのである。」(p.358)

さまざまな音源、特にライブ録音の音源をたどりながら、「ピアニストグールド」が自らの立ち位置や売り出し方を選んでいく過程を推理していく前半は、ドキュメンタリー番組を見ているような面白さがある。彼がステージ演奏を否定していたために彼のライブ音源までが否定されていた面があるとすれば、同業者の視点で彼のライブ音源を丹念にトレースしていったことが、本書の第一の功績だと思う。

その上で重要な指摘として、まず、グールドにとってそういう選択が可能であったのは、彼が「いかようにでも、自分の頭で思ったのと同じ音を出すことができる技術があったからだ」という点は重要だろう。
また、当時の時代状況について「売り出すことのできる若いピアニストが払底していた」という指摘も、ちょっと聞いただけでは信じがたいようにも思うが、「いきなりメジャーデビュー」という謎に説明をつけようとすれば、確かにそういうことになるのだろう。

それにしても、グールドがやりたかったこと、つまりさまざまなテイクを自由に編集して、意図に沿った作品をつくりあげていくことって、記録媒体がアナログテープからデジタルに、さらにハードディスクからクラウドへと移るにつれて、また同時に複雑高価な編集機がPCに置き換わっていくにつれて、理屈上は小学生でもできるようになってくるわけだけど、そこではじめて、これまでになかった新たな創作の形態が完成するわけだから、そういう意味で、「未来のピアニスト」という切り取りかたはまことに的を射たものだと思う。

一点だけ疑問があるとすれば、功成り名遂げたグールドが、デビュー以前の「レガートなグールド」に戻って、自分がむかし弾いていたリリカルな演奏を(もちろんレコードでだが)世に問うことをしなかったのはなぜだろう、ということ。何が「本来の」グールドなのか、は結局誰にもわからないのだけど、きわめて理知的にコントロールされた音楽をもたらしてくれたグールドの本来の姿が別のところにあるとすれば、それは何なのか、を述べて静かな興奮をもたらした上、さらに多くの"if"を提起している第18章「受肉の音楽神」(pp.382-411)は音楽ファン必読。

ご本人は自らのウェブサイトで、「初めからグールド論を書くつもりで材料を集めていたわけではありません」と述べられているが、だからこそなしえた分析なのかもしれない。

前の20件 | - 本と雑誌 ブログトップ
メッセージを送る