So-net無料ブログ作成

沼田まほかる『ユリゴコロ』(双葉文庫、2014) [本と雑誌]

これはまた一体なんというホラー…と思いながら読み進める。
しかし最後の20ページに、思わぬヒューマンドラマが。一気に読み終えて茫然自失。
大沢在昌氏が腰巻きに「読者をも企みにはめる、恐ろしい書き手」と書いているが。同意。

yurigokoro.jpg

青柳いづみこ「グレン・グールド 未来のピアニスト」(ちくま文庫、2014)【ネタバレ注意】 [本と雑誌]

gould.jpg

副題の「未来のピアニスト」ってどういうこと?と思いながら手にとったのだけど、驚きの連続。

あのグールドが、デビュー以前には抒情性あふれる演奏をしていたとは。歌うグールドっていうと普通、声に出して歌うグールドを思い浮かべるのだけど、鍵盤で歌い込むグールドもまた、もともとの姿だったのですね。
「グールドの原点はスタッカートではなくレガートだったのである。」(p.358)

さまざまな音源、特にライブ録音の音源をたどりながら、「ピアニストグールド」が自らの立ち位置や売り出し方を選んでいく過程を推理していく前半は、ドキュメンタリー番組を見ているような面白さがある。彼がステージ演奏を否定していたために彼のライブ音源までが否定されていた面があるとすれば、同業者の視点で彼のライブ音源を丹念にトレースしていったことが、本書の第一の功績だと思う。

その上で重要な指摘として、まず、グールドにとってそういう選択が可能であったのは、彼が「いかようにでも、自分の頭で思ったのと同じ音を出すことができる技術があったからだ」という点は重要だろう。
また、当時の時代状況について「売り出すことのできる若いピアニストが払底していた」という指摘も、ちょっと聞いただけでは信じがたいようにも思うが、「いきなりメジャーデビュー」という謎に説明をつけようとすれば、確かにそういうことになるのだろう。

それにしても、グールドがやりたかったこと、つまりさまざまなテイクを自由に編集して、意図に沿った作品をつくりあげていくことって、記録媒体がアナログテープからデジタルに、さらにハードディスクからクラウドへと移るにつれて、また同時に複雑高価な編集機がPCに置き換わっていくにつれて、理屈上は小学生でもできるようになってくるわけだけど、そこではじめて、これまでになかった新たな創作の形態が完成するわけだから、そういう意味で、「未来のピアニスト」という切り取りかたはまことに的を射たものだと思う。

一点だけ疑問があるとすれば、功成り名遂げたグールドが、デビュー以前の「レガートなグールド」に戻って、自分がむかし弾いていたリリカルな演奏を(もちろんレコードでだが)世に問うことをしなかったのはなぜだろう、ということ。何が「本来の」グールドなのか、は結局誰にもわからないのだけど、きわめて理知的にコントロールされた音楽をもたらしてくれたグールドの本来の姿が別のところにあるとすれば、それは何なのか、を述べて静かな興奮をもたらした上、さらに多くの"if"を提起している第18章「受肉の音楽神」(pp.382-411)は音楽ファン必読。

ご本人は自らのウェブサイトで、「初めからグールド論を書くつもりで材料を集めていたわけではありません」と述べられているが、だからこそなしえた分析なのかもしれない。

さそうあきら「マエストロ」(双葉社、2014) [本と雑誌]

maestro.jpg

いいですね!

道具立てとして音楽を使うのではなく、音楽そのものへの踏み込みがある。音楽は理屈でつくるものではないので、ここで描かれている考え方に好き嫌いはあるかもしれないが、素人にもわかるように音楽の内面に立ち入ったストーリーを読ませてもらったことに感謝。ここで「内面に立ち入った」とは、その場面で演奏者にとって何が問題なのかということと、場合によってはその先にある(ように見える)芸術性にまで話が及んでいるということ。

惜しまれる点として、一つ一つのエピソードと全体の流れとの結びつきがやや弱く、ぽつんと孤立してしまっているエピソードがいくつかあること。ただ、それが気にならない推進力があって、一気に読ませる。3巻で終わってしまうのがもったいない。

きょうの日経 [本と雑誌]

きょう(2/3)の日経27面「経済教室」を読んでいたら、「激動ユーロ(下)統合と分断 絡み合う力学」と題して、遠藤乾北海道大学教授が統合の進展と逆統合が同時に進行している状況を説明しているのだけど、そこに引用されている「欧州各国民の各国への印象にみる「ステレオタイプ」」という表がとても面白い。

 Q1.最も勤勉な国はどこか?
 Q2.最も信頼できる国はどこか?
 Q3.最も怠惰な国はどこか?
 Q4.最も信用できない国はどこか?

という設問に対して各国民が答えているのだけど、例えばイギリス人は
 A1.ドイツ A2.ドイツ A3.ギリシャ A4.フランス
と答えている。イギリスの歴史に詳しい人ならクスッと笑うところだろうか。またイタリア人は、
 A1.ドイツ A2.ドイツ A3.ルーマニア A4.イタリア
と答えている。最も信用できないのが自国って、これまたイタリアらしいなぁ。

しかし、いちばん笑えた(かつ頭をかかえた)のはギリシャ人の回答で、
 A1.ギリシャ A2.ギリシャ A3.イタリア A4.ドイツ
つまり自分たちは正しくて、目下の問題はすべて外部のせいだ、という主張ですね。
(ちなみに、Q1とQ2に対して自国をあげたのはギリシャとドイツだけである)

もう一つ、これは笑えないというか身につまされるのがポーランド人の回答で、
 A1.ドイツ A2.ドイツ A3.ギリシャ A4.ドイツ
うーむ。

リチャード・ホーフスタッター/田村哲夫訳『アメリカの反知性主義』(みすず書房、2003) [本と雑誌]

きのう(12/10)の「クローズアップ現代」を見ていたら、読書に関する文化庁の調査結果が紹介されていて、調査対象2千人の47.5%が「1か月に1冊も本を読まない」のだそうだ。こういう話は通常、「困ったこと」として紹介されるし、むろんこの番組もそういう趣旨だったのだけど、番組を見ながらふと思ったのは、いまや状況は全く逆で、本を読まないことが社会的に要請されているのではないかということだった。もっと有体にいえば「本なんか読んで余計な知恵をつけられると困る」と思っている方々が一部に存在するのではないかなあと。

現に、政府高官が「学術研究を深めるのではなく、もっと社会のニーズを見据えた、もっと実践的な、職業教育を行う。そうした新たな枠組みを、高等教育に取り込みたいと考えています」とか発言しているわけだし。
2014.5.6 OECD閣僚理事会における基調演説
これが「学術研究を深めるだけでなく、…そうした新たな枠組み取り込みたい」なら何の問題もないのだけど、そうじゃないのでね。すでに一般教養は解体され、さらに専門教育も壊されたら、大学に残るものは何もないわけで、それなら最初から資格試験予備校へ行けばいいわけですな。

ネットの世界には「真実」とか「正しい」なんて言葉が氾濫しているのだけど、そういう言葉を無造作に使う御仁が身の回りにいたら、うさんくさいと感じるのが常道ではないかと。学術の世界に短期間でも身を置いた者なら、何が「正しい」かを論じることの難しさはわかるだろうし、そもそも皿回しの世界における「真実」とは相対的真実にすぎないとされていることもご高承の通り。

3秒で世の中がわかりたいという願望はいつの世の中にも(自分にも)あると思うけど、紙の本だと、自分の知りたいことにたどりつくまでの過程があるので、その過程で「おや?」とか「あれ?」という気づきがあって、それが自分の軌道修正につながっていく。しかし、自分の知りたいことだけをネットでピンポイント的に知ろうとすると、そういう修正が効かないし、さらに、ピンポイントで釣り上げたその答えは、誰も責任を負わない落書きなので、いっそう始末に負えない。3秒で世の中がわかりたいとか、すべてのものごとに明快な原因や理由があるはずだという願望自体が、そういう白黒二元論的脳内回路をつくりあげてしまうのだということに気づいてほしいのだけど。正義の味方と悪人しか出てこないようなクソ小説ばかり読んでいたせいで読者の行動様式もそうなってしまうのか、そういう行動様式の人間だからそういう小説をいいと思うのか、そのあたりは謎である。

Hofstadter.jpg

前置きが長すぎるのだけど、そうした「3秒で世の中を理解したくて、正義の味方と悪人しか出てこない世界観を持った人々」が当然感じるべき後ろめたさを覆い隠す免罪符が「アメリカを愛する心だ」というのがホーフスタッターの説明するところだ。遠い異国の、50年以上むかしの書物とはとても思えない。


しかしまた、これこそアメリカだなと感じるのが、どうしようもない反知性主義と、専門家集団による高度な知性とが、常にせめぎあい、拮抗していることこそがアメリカ社会の本質であり、それが合衆国という組織の活性化や復元力につながっているのだということ。つまり合衆国には復元力があり、ある方向に傾いてもまたそれが元に戻ってくる。それが東洋のどこかの国との大きな違いなのだと思う。その合衆国でさえ、イギリスから見ればずいぶんと右往左往しているように見えるが。

また、1950年代の反知性主義流行を終息させたのがスプートニク・ショックという現実だったという指摘は面白い。現実をつきつけられたときに、ファンタジーにケリをつけて現実的に対応するのか、いっそう強固にファンタジーに引きこもるのか、この違いは当たり前のようだが重要な違いであろう。

福音館書店母の友編集部編「ぼくのなまえはぐりとぐら-絵本『ぐりとぐら』のすべて」(福音館書店、2001) [本と雑誌]

IMG_0565.jpg
郵便局の前を通りかかると、ちょっとした行列が。
ちょうど用事があったので列に続いて入ってみると、みなさん郵便窓口へすすんでいく。「ぐりとぐら」の切手を売っている。ついつい買ってしまう。

ぼくらのなまえは.jpg
さて本書は、福音館書店の超ロングセラー「ぐりとぐら」誕生のいきさつと、日本や海外の読者に受け入れられていった過程を紹介している。今まで勘違いしていたのだけど、「ぐりとぐら」より先に、これまた名作である「いやいやえん」があったのですね。こどもが読む順番だと、「ぐりとぐら」→「いやいやえん」になるので。

著名人による「ぐりとぐらへのトリビュート」も収録されているのだけど、なぜ「ぐりとぐら」に惹かれるかを説明するのに、みなさんかなり苦労されている。そこで自分も、試みに説明を。

自分が同時代で知っている「ぐりとぐら」は、第1作「ぐりとぐら」(1963)の傑作集版(1967)と、第2作「ぐりとぐらのおきゃくさま」(1966)だけなのだけど、この2冊を初めて読んだときの興奮は、今でもよく覚えている。その興奮を個別の要素に分解していくと、
 ・狭い場所、小さな場所にみっしり細かいものがつまっている感じ
 ・色遣いの上品さ
 ・文がもつ独特のリズム感(七五調ではない!)
 ・おいしいカステラの存在
といったことになるのではないかと思う。
そういう要素をもったこどもの本って、むろん数多くあると思うのだけど、半世紀を経てなお本シリーズが読み継がれているのは、これらに加えて
 ・ぐりとぐら以外の「住人たち」にそれぞれ持ち味があり、それらが序列や諍いなく共存している
ということがあるからではないかと。

また、「ぐりとぐら」に添えられた付属冊子「まず絵本を読むまえに」には、編集者松居直さんのこんな一文があるという。
(以下本書65頁から孫引き)

「絵本をかくということは、人間に対する深い信頼がなくてはできません。(中略)この絵本は、いろいろな意味で、日本の現在の絵本界に一石を投じると思います。何よりも子どもたちが大喜びしてくれるでしょう。」

(以上引用終り)
この自信はやはり、石井桃子さんや瀬田貞二さんたちとともに、日本に「こどもの本」というジャンルを切り開いてきたという自負からくるものだと思うし、事実そのとおりの展開になったわけで。

そういえば、本書にはフライパンでつくるカステラのレシピが載っている。試してみなければ。



梨木香歩『渡りの足跡』(新潮文庫、2013) [本と雑誌]

渡りの足跡.jpg

俳人にとって渡り鳥は重要な季題(「鳥帰る」「鳥雲に」「帰雁」「残る鴨」などは春、「鳥渡る」「帰燕」などは秋)だが、その出発地や経由地や行き先を実際に訪ねてゆく話。
かれら(渡り鳥)にとってそれがどれほど困難なものであるかが了解されるとともに、渡りが季節と分かち難い関係にあることに、季節というものの奥深さを感じる。また、渡りは移動であるからして、出発地にも到着地にも、等しく季節感をもたらす―それらの間に軽重や貴賎はない―ことも重要。

その上で本書は、鳥の渡りと並行するかのように、ヒトが遠くへ移り住んでいく話を挿入している。これがいずれも重みと深さをもった話で、鳥の話とヒトの話が相互に響きあっている。

叙述とモノローグが混在するような独特の文体は、人によっては気になるかもしれないが、いわばフォントに大小があるようなものと思えば楽に読めるのではないか。ただまあ、この話を池澤夏樹が書いたならば、ずいぶんと違った趣の読み物になっただろうとは思う。

中沢けい『楽隊のうさぎ』(新潮文庫、2014)【ネタバレ注意】 [本と雑誌]

楽隊のうさぎ.jpg

中沢けいが青春小説を書いたら、やはり中沢けい風味の青春小説になる。
ここで中沢けい風味とは何かといえば、
・こころの動きを描くために使われる喩え(ここでは「左官屋」とか「うさぎ」など)が、いくぶんファンタジーの色合いをともなっていること
・視点や時点の切り替えが不思議なタイミングで用いられていること。特に、主人公の視点と著者(語り手)の視点がシームレスに転換している(もっといえば、一体化している)こと
の2点があげられ、こうした風味が、とかくすいすい流れてしまいがちなストーリーを引きとどめ陰影をつける効果をあげていて、好ましく感じられる。
著者の視点が主人公の行動について書いた部分が「○○はできたが、××はできない」という説明口調に感じられる点が若干気になるが、それは、この小説を獲得の物語として考えたときに、それぞれの箇所で何が獲得でき、何が獲得できなかったかという点に重きを置いているということなのだろう。

回収されていない伏線がまだたくさんあるので、続編を楽しみに待ちたい。

蛇足だが、中沢さんは「中学生ってどんな年代なのか」に強い関心を持っているようで、『大人になるヒント』(メディアパル、2008)という著作もある。そこでは中学生を、「世界と出会う、つまり自分と異なる視点を獲得する年代」(こうまとめてしまうと、なんだかありきたりだが…)と捉えているように思われ、それは本書とも共通する視点になっている。

同じ中学1年生を描いた森絵都『クラスメイツ(上・下)』(偕成社、2014)のストーリーの巧みさと比べると、こちらは少し硬質な物語かもしれない。むろん、どちらもそれでよいのである。

小澤征爾・村上春樹『小澤征爾さんと、音楽について話をする』(新潮文庫、2014)【ネタバレ注意】 [本と雑誌]

maestro.jpg

朝の上り電車で隣に立ったお兄さんが「厳選論点Q&A 財務諸表論」という小冊子を読んでいる。心の中で「本試験がんばって!」と声をかけながら電車を降りる。
本試験直前のこの季節に、テキストや条文集ではなく好きな本が読めるしあわせ。

聞き役としての村上春樹の良さは、村上さん自身が大の音楽好きつまり、批評する以前に音楽が好きだという点にあると思うのだけど、その上で、本書のより具体的な良さとして、次の3点があげられる。
まず、小説家村上春樹のポジションから半歩ひいて聞き役に徹していること。たとえば第1回で、ルドルフ・ゼルキンの話題が出てくるのだけど、村上さんには「ゼルキンとルービンシュタイン」という文章があって(『意味がなければスイングはない』所収)もっと立ち入った話をしようと思えばできるはずだが、さかしらに自分の知識を開陳するようなことはしない。
2点目に、読者が尋ねたいと思う点を代弁してくれていること。それも、質問を加減するのでなく、自分が尋ねたいことを流れに乗って尋ねているのだけど、それがまさに読者が尋ねたい点であること。
3点目に、最も重要な点として、話し手と聞き手の思考ががっちり噛み合って会話が進んでいく結果、話し手である小澤さん自身さえそれまで自覚していなかった何かを引き出していること。これはすごい。

そうした中で例外的に「小説家村上春樹」が顔をのぞかせるのが、マーラーについてのやりとり(第4回)で、ここでは珍しくも「これは、こういうことではないですか?」を連発している。これは、マーラーの音楽が作家村上さんにとっての「水脈」と近い位置にあるということだと思う。

他方、話し手としての小澤さんは論旨明快で、これも本書が読みやすい理由になっている。ところどころに不思議な表現が出てくると、すかさず村上さんが聞き返してくれるので、そこで小澤さんが、より一般的表現でどう説明すべきか考えはじめるプロセスも面白い。「子音」をめぐるやりとり(pp.86-7)のように、最後まで私にはよくわからない箇所もあるのだけど。

結局、これらを成り立たせているのは、双方のコミュニケーション能力が極めて高いからで、このような芸当はめったに見られるものではない。ここでとりあげられている曲を全く知らなくても十分に楽しめる(と思う)のは、本書が、いくつかの曲を題材にしつつも、やりとりが音楽論であり芸術論になっているからだろう。





仏で「反アマゾン法」成立 書籍配送無料サービス禁止 [本と雑誌]

2013年10月の国民議会(下院)に続いて元老院(上院)も通過。全会一致ってところがフランスらしい。消費者の(目先の)利益ガーとか叫んで反対する議員はいなかったわけですね。わかります。

本当の問題は―ここから皿回し話になってしまうが―アマゾンやグーグルのようなアメリカ本拠の多国籍企業が、米国に申し訳程度に納税する以外は各国にまともに納税しようとしないことにあるのではないかと。オランダとかアイルランドとかバミューダとかの税制を巧みに使ったスキームを追認している米国政府も同じ穴のむじな。株主利益の最大化を名目に正当化しようとしても、誰でも使えるスキームでない時点で公正な競争といえないでしょ。
国際課税をめぐるこの種の国家間抗争の入門としては、志賀櫻「タックスヘイブン―逃げていく税金」(岩波新書)がおすすめ。租税について知識がなくても読めます。

  

蔵前仁一『バルカンの花、コーカサスの虹』(旅行人、2014) [本と雑誌]

ushguli.jpg
蔵前仁一さんの最新刊で、バルカン半島(2013)、ルーマニア(2009)、コーカサス諸国(2010)への旅行記。

前作『あの日、僕は旅に出た』にも書かれていることだが、もともとグラフィックデザイナーだった(今もそうだけど)蔵前さんの関心は、現在では美術や建築や民具などに向かっている。だからルーマニアの農民博物館で見つけた半地下住居を求めてワラキアの田舎の村まで脚をのばしたり、「塔の家」を探してグルジアの谷の奥へ分け入ったりする。バックパックをかついで旅すること自体の楽しさが前面に表れた『ゴーゴー・インド』(凱風社、1986)や「ホテルアジアの眠れない夜」(凱風社、1989)から四半世紀の移り変わりが感じられる。

身の回りにはときどき、経験を重ねることで好奇心が摩滅し、かえって何を見ても感動できない「すれっからしの旅行者」になってしまう人がいるけれど、見てみたいもの、調べたいものに対する蔵前さんご夫妻の熱の入りぶりは変わっていない。「塔の家」を求めてグルジアの辺境の谷を分け入ったウシュグリという村での描写、具体的には「残念ながら」以下の10行は、とりわけ心に残る(pp.284-5、カバー写真にもウシュグリで撮影された風景が使われている)。大げさなことは何も書かれていないが、旅の感動が伝わる。

たまたまバルカン半島諸国やルーマニア、コーカサスにもほんのちょっとだけ行ったことがあるので、同じ町の同じものを見ても、そこから芋づる式に呼び起こされる興味の方向や質がこんなふうに違うのか、と楽しみながら読むこともできた。
また、交通機関の所要時間や運賃、宿代、現地の人の月給なんかがそのまま書かれているのは、旅行者向け情報ではなく、社会史的な価値を意識されているのだと思う。特に本書で扱われている地域は、経済的な浮き沈みが激しいところでもあり、何十年かに読み返せばその数字自体が面白いに違いない。

 

『ダークスター・サファリ』の登場人物一覧【ネタバレ注意】 [本と雑誌]

藪柑子のアフリカ経験はきわめて限られたものでしかないが、それでも、「あぁ、アフリカ行くとこういう人いるよね」と思わせる人物が次々に登場する。この人たちとの会話を受け止めるセローの胆力には恐れ入る。
「アフリカの国境を歩いて越えない者は、ほんとうの意味で入国したとは言えない。首都にある空港はまやかしの境界にすぎず、はずれにあるように見える彼方の国境こそ、実体を具えたその国の中心なのだ」(p.289)
その感じ、よくわかります。

第1章 逃避

第2章 世界の母(カイロ)
1. アミール・グーダ(タクシー運転手)
2. ムハマド・カブリア(馬曳き)
3. サリフ・マシャモウン(駐エジプトスーダン大使)
4. クラシ・サレフ・アフマド(駐エジプトスーダン領事)
5. スティーブン・ムシャナ(駐エジプトウガンダ領事)
6. レイモンド・ストック(マフフーズの伝記作家)
7. ナギーブ・マフフーズ(作家)
8. アリ・サレム(エジプト人作家)
9. エシェテ・ティフロン(駐エジプトエチオピア総領事)

第3章 ナイル川を行ったり来たり(アスワン、ルクソール、ハルガダ、再びカイロ)
10. ウォルター・フレイクス(アメリカ人観光客)
11. ムハンマド(ファルーカを操るヌビア人)
12. ベニート・クルチアーニ(コンボニ宣教会司祭)
13. ファウジ(エジプト学のガイド)
14. イブラヒム(フィラエ号の給仕)
15. イハブ(エジプト航空の行列で隣り合った男)

第4章 オムドゥルマンのダルウイーシュ(ハルツーム)
16. ハルーン(アクロポール・ホテルの同宿者)
17. ヨルゴス・パゴウラトス(アクロポール・ホテルを経営するギリシャ人)
18,19,20 ハッサン、アブダラ、サイフ・ディン(ハルツームの大学生)
21. レイ・マグラス(イギリス軍を退役した地雷撤去の専門家)
22. マハムード・アルマンスール(ニューヨークから家族に会いに来たタクシードライバー)
23. ドクター・シャイフ・アド・ディン(医師)
24. ドクター・ファイズ・アイザ(弁護士)
25. ハリーファ(ハルツーム博物館に同行した歴史通)

第5章 ヌビアへのウサマ・ロード(シェンディ、再びハルツーム)
26. ラマダーン(ヨルゴスがみつけてくれた運転手)
27. ムハンマド(シェンディの王宮の警備員)
28. カマル・ムハンマド・ヘイル(3人連れのヌビア巡礼者のリーダー)
29,30 ハッサン(カマルの息子)、ハミド(連れのヌビア人)
31. アブダラ・マギド(華奢な青年)
32. サディク・アル・マフディー(アル・マフディーの曾孫で元スーダン首相)

第6章 ジブチ鉄道でハラールへ(アジスアベバ、ハラール)
★33. シスター・アレクサンドラ(マルタ出身の尼僧)
34. ニャリ・タファラ(ハラール育ちの失業者)
35. クリスティーヌ・エスカリオラ(スイス出身で修道院附属学校の職員)
36. アブドゥル・ハキム・ムハンマド王子(ハラールの首長の直系の子孫)
37. ユスフ(ハラールのハイエナマン)
 
第7章 アフリカで一番遠い道(アジスアベバからケニヤ国境へ)
★38. カール・ネルソン(駐エチオピア米国大使館広報官)
39. ニビー・マコンネン(元囚人)
40. ウビシェット・ディルネサフ(ハイレ・セラシエ元皇帝の補佐官)
★41. アリ(仲介人)
42,43. ダデレとウォルデ(南部地域への同行者)
44. グラッドストン・ロビンソン(ラスタファリアンの村の最初の定住者)
45,46. デズモンドとパトリック(ラスタファリアンの村のジャマイカ人)
47. ダイスケ・オオバヤシ(ディラに暮らす通信技術者)

第8章 強盗街道を行く(エチオピア/ケニア国境からイシオロ、ナニュキへ)
48. ムスタファ(家畜運搬車のドライバー)
49. ベン・バーカー(旅行者用トラックのイギリス人ドライバー)
50. アベル・バーカー(ベンの弟で修理工)
51,52 フィオナとレイチェル(イギリスの慈善団体職員)
53. ミスター・マイナ(マルサビットの中等学校長)
54. ミック(トラックの修理チーフ)
55. ジェイド(トラックの乗客のニュージーランド人女性)
56,57 レベッカとローラ(トラックの乗客の少女)
58. ジュディー(ミックのガールフレンド)
59. ヘレン(セレロヴィに住むキクユ人女性)
60. チーフ・ジョージ(セレロヴィの地元部族の首長)
61. ファーザー・ラヴィシ(マルサビットのイタリア人司教)
62. マーク(トラックに同乗するサンブル族の警官)
63. シスター・マチルダ(サルディニア出身の修道女)

第9章 リフト・ヴァレーの日々(ナイロビ)
64. カマリ(ナイロビ行き乗合タクシーの同乗者)
65. シャー(ナイロビのインド人商人)
★66. ワホメ・ムタヒ(ジャーナリスト・作家)

第10章 コウモリ谷の旧友たち(ウガンダ)
67. ジョン・ンタンヴィレウェケ(マケレレ大学の講師)
68. クレモンティーヌ(コンゴ出身の売春婦)
69. アンジェリク(ルワンダ出身の売春婦)
70. フィフィ(ブルンジ出身の売春婦)
71. アポロ・ンシバンビ(ウガンダの首相)
72. ジャシ・クェシガ(シンクタンクの運営者)
73. チャンゴ・マチョ(国家政治委員)
74. テルマ・アウォリ(マケレレ大学の元同僚)

第11章 ウモジャ号でヴィクトリア湖を渡る(ウガンダ→タンザニア)
75. ミスター・ジョセフ(フェリー埠頭の係員)
76. オピオ(カバレガ号の船長)
77. マンサワワ(ウモジャ号の船長)
78. アレックス(ウモジャ号の一等機関士)
79. ジョン・カタライヒャ(ウモジャ号の機関長)

第12章 ブッシュ列車でダルエスサラームへ(ムワンザ→ダルエスサラーム)
80. ジュリウス(農業技術者)
81. ウエストン(会計士)
82. クリストファー・ンジャウ(パスポートを待つタンザニア人青年)

第13章 キリマンジャロ急行でムベヤへ(ダルエスサラーム→ムベヤ→マラウイ国境)
83. マイケル(タンザン鉄道の同乗者。コンゴ人)
84. フィリ(タンザン鉄道の同乗者。ザンビア人)
85. アリ(タンザン鉄道の同乗者。ザンジバル人)
86,87 コナーとケリ(サンフランシスコ在住のアイルランド人とその妻)
88. ウルスラ(ザンビアのエイズ対策事業に携わるフィンランド人)
89,90 プラサドとシヴァ(ムベヤのインド人商人)

第14章 高原の開拓地(マラウイ国境→リロングウェ)
91. 某(出入国管理官)
92. シモン(乗合バスの料金徴収係)
93,94 デイヴィッド・ペンローズとジョニー・バクセンデイル(ケニア在住のサファリガイド)
95. ムコシ(ムズズのホテルで酒をたかりに来たズールー人)
★96. ユーナ・ブラウンリー(リヴィングストニア布教区から来たアルスター人看護師)
97. サリム(リロングウェのレストラン経営者)
98. 某(駐マラウイ米国大使)

第15章 ソチェ・ヒル・スクールへの田舎道(リロングウェ→ゾンバ→ブランタイヤ)
99. デイヴィッド・ルバディリ(マラウイ大学学長。ソチェ・ヒル・スクール元校長)
100. サム・厶ペチェトゥラ(昔の教え子)
101. ガートルード(ルバディリの妻)
102. ジョナサン・バンダ(ジョージタウンから帰国中の政治学者)
103. アン・ホールト(ソチェ・ヒル・スクールの現在の教員)
104. ジャクソン・イエカ(ソチェ・ヒル・スクールの現在の教員)
105. スティーヴ・カムウェンド(家具店の支店長)
★106. 某(元駐ドイツマラウイ大使)

第16章 リバーサファリで海岸へ(ブランタイヤ→カイア→ジンバブエ国境)
107. ハドソン(ンサンジェへのタクシードライバー)
108. カルステン・ニャチカザ(マルカの村長の息子)
109. ウイルソン・マテンゲ(カルステンの友人)
110. ジョアン(カイアからベイラへのトラックドライバー)

第17章 ドラモンド農場を占拠する(ジンバブエ)
111,112,113,114,115 ピーター・ドラモンド(白人農場主)、リンジー(妻)、トロイ、ガース(長男・次男)、ローレン(ガースの恋人)
116. エドワード・チンドリーチニンガ(環境観光大臣)
117. レイク(ドラモンド農場の占拠者)
118. ジョゼフ(漁業共同組合の経営者)
119. 某(元ジャーナリストのアメリカ人)
120. 某(元外交官のアメリカ人)

第18章 越境ブッシュバスで南アフリカへ(ハラレ→ヨハネスブルグ)
121. ワシントン(バスのショナ族同乗者)
122. ツーロ(バスのソト族同乗者)

第19章 ヨハネスブルグのヒト科たち(ヨハネスブルグ)
123. ノーマン(タクシードライバー)
★124. ナディン・ゴーディマ(作家)
125. エル・リッジ(セネガル出身の工芸品売り)
126. エドワード(リトアニア人のタクシー運転手)
127. デイブ(ブルガリア人のエンジニア)
128. ソリー(ソト族出身の農場労働者)
129. アルビーノ(ナディンの家の使用人)
130. ラインホルト・カッシーラー(ナディンの夫)
131. ラクス・シーコア(詩人。かつての政治犯)
132. モーリーン・イサクソン(サンデー・インディペンデント紙の文芸局編集長)
133. マイク・カーキンス(化石遺跡のガイド)
134. シビラ(マイクのガールフレンド、獣医)
135. リー・バーガー(ウィットウォータースランド大学の古人類学者)
 
第20章 マラマラの動物たち(ネルスプロイト)
136. ハンシー(元南アフリカ軍兵士)
137. マイク・ラトレイ(動物保護区のオーナー)
138. クリス・ダフネ(動物保護区のレンジャー)
139. ノーマ・ラトレイ(マイクの妻)

第21章 リンポポ線での信仰と希望と慈善(ネルスプロイト→マプト→ヨハネスブルグ)
140. カンディド(マプトのタクシー運転手)
141. クリス(マプトのレストランの店主)
142. スザンナ(オハイオ州出身の宣教師)
143. ダ・シルヴァ(マプトのポルトガル人)

第22章 トランスカルー急行でケープタウンへ(ヨハネスブルグ→ケープタウン→サイモンズタウン)
144,145 ボブとシルヴィア(南アフリカ人の夫婦)
146. クレイグ(トランスカルー急行の客室乗務員)
147. ウィリアム(ヨハネスブルグのヴェンダ人)
148. クリス(スキンヘッドのバイク乗り)
149,150 イギリス人夫婦(トランスカルー急行の同乗者)
151. アンディー(ケープタウン駅の案内所員)
152. サンド(ニューレスト不法居住地を案内してくれた男)
153. スワニプル(ケープタウンの古道具屋)
154. ハッサン(ケープタウン第六地区のかつての住人)
155. ノア・アブラヒム(ケープタウン第六地区で生まれ育った作家)
156. トレヴァー(サイモンズタウンのバス停留所で新聞を読んでいたイギリス人)

第23章 ブルートレイン・ブルース

数えかたにもよるが、全部で156人!
(★をつけたのは、特に時間をかけてゆっくり読んでほしいやりとりの相手)


ポール・セロー/北田絵里子・下村純子訳『ダークスター・サファリ』(英治出版、2012)【ネタバレ注意】 [本と雑誌]

darkstar1.jpegdarkstar2.jpeg
この分厚さを見てほしい。キッチンスケールで量ると、740gもある。

内容も重厚。セローの小説を読んだことがないが、旅行記はこれまでどれも文句なく読みごたえのあるものだった。新刊が出たら迷わず買う作家の一人である。全作品が翻訳されて当然だと思うのだが、なぜか日本では、出るたびに版元が違うという冷遇ぶりで、合点がいかない。早く買わないといつ品切れになってしまうかわからないので、2012年1月の発売と同時に買い、2013年の大試験終了後に読み始め、年末にようやく読み終えることができた。

カイロからケープタウンまで陸路で旅する。その間に出会う人々と、さまざまなことを話す。その相手は列車に乗り合わせた客であったり、フェリーの船長だったり、その国に駐在する米国大使だったりさまざまだが、ともかく人に会って話をすることを繰り返していく。それも、「人情味あふれる会話」のようなレベルでなく、自分のアフリカでの経験に端を発する「アフリカはなぜこうなのか?」という本質に迫っていく会話だ。その問題意識は、前作『ポール・セローの大地中海旅行』より一層研ぎ澄まされている。しかしいったい何人出てくるのか。せっかくだから、実際に話した相手(名前が明らかな相手)を全部数えてみよう。(→次の記事で)

控えめに書かれているけれども、アフリカ大陸縦断(Cairo to Cape)は旅の技術として容易ではない。さらにそのなかでも、セローが選んでいるルートは困難なものである。特にエチオピアからケニアまでの区間、そしてマラウイ南部から水路モザンビークを経てジンバブエに入るまでの区間は、自分の実力では無理だ。高齢のセローがこのルートを選んでいることに驚く。

それはともかく、かつてセローが赴任していた二つの国(マラウイとウガンダ)の現状の対比のなかに、セローの辛辣だが前向きな問題意識が明確に示されている。これでもかと次々繰り出される眼前の事実に圧倒されることなく、セローは考え続けている。その違いを分けるものは何か、という核心部分については、ぜひ本書を読んでほしい。異論反論は多くあろうし、アジア人として別の視点を提起したいなぁと思う部分もあるが、頭の中の思いこみから演繹的に結論を導くのでなく、多少なりとも眼前の事実から考えたことである点が、説得力を増している。ナイポールの作品の主調となるメンタリティについてのセローの捉え方と、そのセローの捉え方についてのゴーディマの反駁は、本書の読みどころのひとつともいえる。また、そのやりとりを隠さずに書いていること自体、セローが視点を相対化できていることの裏付けである(最後の最後に、ナイポールの名がもう一度、ひょいと現れるのが面白い)。

また、他の作品に引続いてこの作品を読んだことで気付いた点として、故郷ことに欧米を遠く離れて、1人で暮らし、そのまま埋もれていく人々が折に触れて描かれていることがある。これは、初期の『鉄道大バザール』以来セローの作品に共通するテーマで、それらの作品を読んでいたときには気付かなかったが、村上春樹風にいえば、これがセローにとっての「水脈」であるように思える。

この点に関連して、こうやって多くの人と話しながら、セローがどうでもいいおしゃべりをうとましく感じ、「異なる意見を参照しながらも自ら考えを掘り下げていく」ような人に惹かれていることは明らかだ。アフリカの不便な村で暮らしながら、何も考えていない奴とみなされると、47人目の登場人物であるダイスケ・オオバヤシ氏のように罵倒されることになるのだろう(ちょっと気の毒ではある)。

ところで、イギリス好きの方なら思い出すだろうが、モンティ・パイソンのメンバーだったマイケル・ペイリンの「Pole to Pole」もこれに近いルートを通ってアフリカを縦断している。こちらはBBCの紀行番組のための旅なので、一か所に長逗留してはいられないし、ディレクターやカメラマンも同行しているのだけれど、しかしマイケル・ペイリンはちょっとした会話で相手の懐に入り込む天才なので、これはこれで、アフリカの一面をよくえぐり出している。DVDと比較しながら本書を読むのも楽しい(DVD(PALだけど)はBBCのウェブサイトで購入できる)。

どなたにもお勧めできる一冊だが、19世紀から20世紀にかけてのアフリカ各国の歴史や関連する文芸作品を簡単にさらっておくと、より楽しめるのではないだろうか。読み終えたら、次は『ゴースト・トレインは東の星へ』が待っている。

 

クラフト・エヴィング商會のおかしな展覧会 星を賣る店(3/23 世田谷文学館) [本と雑誌]

俳句会の大先輩が招待券を譲ってくださったので(ありがとうございます)、いそいそと芦花公園駅から世田谷文学館へ。いつ以来だろうか。
会場はかなりの人ごみだが、展示物の方はそんな大人数を想定していないので、独自の美学に沿って低目にしつらえられている。そのため、前に並んでいる人が動くまでじっと待って一品(?)ずつ見ていくことになる。これは疲れるが、致し方ない。
craft ebbing1.jpegcraft ebbing2.jpeg

クラフト・エヴィング商會のさまざまな作品や活動を実見すると、本が読者にもたらすものとして、文字に書かれた内容のみならず、文字自体のたたずまいや造本、さらにその周辺のさまざまな部分に負っている部分が多いことが今更ながらに納得される。ちょうど、対面の会話が、言葉そのものだけでなく、身ぶり手ぶりや顔つきなどのノンバーバル・コミュニケーションに多くを負っているのと同じだ。そう考えると、法令集のようなジャンルを除けば、電子書籍が紙の書籍の代替物となり得ないことは明らかだろう。

また、同商會が2005年以来一貫して手掛けてきた「ちくまプリマー新書」の装幀は、この新書全体のイメージを決定づけている。しかもそのイメージは、筑摩書房がねらいとする「若い人たちに最初に手に取ってもらいたい新書」(同社ウェブページによる)とよく合致しているように思われる。さらにいえば、例えば岩波新書は、「表題以外は同じ」でやってきているから、10メートル手前から見てもそこに岩波新書があるとわかるわけだが、「一冊ずつ違う装幀なのに、一見してちくまプリマー新書とわかる」のは、なかなかすごいことのように思われる。

家路についてから、会場で配付された「クラフト・エヴィング商會月下密造通信号外 ムーン・シャイナー」を読む。冒頭に掲げられた吉田篤弘さんの一文、特に「子どものころにも思い、」で始まる4段落目、異例に長いこの段落は、独語と呼びかけとが混在するような自在な語り口の内に、本と音楽について多くのことを言い得ているように思われる。数年前のインタビューで吉田さんは、最も影響を受けた本として向田邦子の『父の詫び状』を挙げ、「文章を書くことを志したきっかけともいえる作品です。」と述べているが、そのことも連想させる。

インタビューの上手さ [本と雑誌]

元編集者でライターの橋本麻里さんが、こんなことを述べている。
(以下@hashimoto_tokyoから引用)

インタビューの上手さには段階があって、インタビュアーが用意/想定したとおりの内容を話させようとするのが最低。インタビューイーが「日頃の考えを過不足無く話せた」と思えるのがまあまあ。達人はインタビューイーが「自分がこんなことを考えていたとは」と驚く内容を深いところから引き出す。

(承前)次の問題は「書き方」で、話したとおりの口調をそのまま書くのが最低。内容にもよるが、「いかにも書き言葉」に変えてしまうと、談話らしい生命力が失われてしまう。なので狙うのは、話者が普段書いている文体と口調の中間あたり。話者には「自分らしい語り」と感じられ、読者にも読みやすい。

(ここまで引用)

いたたたこれは拳拳服膺せねば。それにしてもハードル高いな。
書き方のほうは努力でなんとかするしかないが、自分の残り時間からするとなんとかならぬかもしれない。そしてインタビュー自体となると、例えば一から説明してもらわなくてはわからんのではインタビューのしようもないので最低限のところは何とかがんばるとして、その先の話はある種、努力を超えたところにある才能なんではないかと。

最近では、『考える人』2010年夏号に載っていた「村上春樹ロング・インタビュー」が印象に残る。作家からこういう話を引き出す力って並大抵のものではない。

河北新報社編『河北新報のいちばん長い日』(文藝春秋、2011(文春文庫2014)) [本と雑誌]

kahoku.jpg

ポール・ギャリコの短編集『銀色の白鳥たち』(ハヤカワ文庫)の一篇に、大ニュースに接した夜勤の新聞記者が、1人で活版を組んで号外を印刷させてしまう話(「マッケーブ」)があるが、困難な状況のなかで、目の前で起こっている事実を伝えようとした人々の努力を淡々と綴っているこの記録は、広く読まれてよい。

人に会って話を聞く。その積み重ねによってエラーを減らしながら、全体像に近付いていく。大きな災害時には全体像が巨大になり、積み重ねなければならない煉瓦の数は多くなるが、そのような事態に対して取材者の数は限られている。そのため、絵柄の周縁部は早い段階で描くことができても、核心部分や、全体として何がどうなっているのかが判明するまでには時間がかかってしまうし、エラーも起こりやすい。自らも退避指示を受けながら、旧知の首長の携帯に電話したら「記者なんだから、電話で聞かないで見に来い」と怒鳴られるいきさつは、このような状況のジレンマをよく物語っている。

その一方で、こうした困難な状況やジレンマの中での取材が、多くの記者の人生を大なり小なり変えていく様子も描かれていて、紙面には現れないその「変えられ方」がリアルであることが、本書の説得力の裏付けや、また単なる美談や自慢話にしない重要な要素になっているように思われる。

取材し出稿する記者だけでなく、それを紙面としてどのように作り上げるか頭を悩ませる整理部の苦悩も、みごとに描かれている。最後の最後に「死者」の二文字を「犠牲」に改め、しかし「はたして正しい判断だったのか、今も答えが出せません」と述べる謙虚な姿勢は、見習われるべきであろう。こうした見識もまた、新聞のクオリティを支えている。また、新聞の生命線ともいえる販売店の店主やその家族たちの使命感、さらに、一度は帰国を決意しながら踏みとどまり、職場に戻ってきた外国人留学生、自らの取材欲を封印してロジスティクスに徹する隣接県の記者やその家族、その友人…とさまざまな人々が震災報道を支えていることが今更ながら了解される。このようなことがらは、演繹的に上から目線でモノを言うときにはスポッと欠落してしまうのだけれど、結局はこうした「個別」こそが「大災害時の情報共有のありかた」という大きなテーマを構成していくのだという点に思いをいたす必要があるように思われる。




三浦しをん『星間商事株式会社社史編纂室』(筑摩書房、2009(ちくま文庫、2014)) [本と雑誌]

hoshima.jpg
ストーリーに乗り切れない。残念。
一つ一つのシーンを見ていくと、内容も描写もすごく楽しいし、心動かされる描写も数多い(このあたりはさすが)のだけど、全体を組み上げたときの中途半端さというのか、この話の中心がどこにあるのか、最後まで腹に落ちない。初出が雑誌でなく、「ウェブちくま」への連載だったからというわけではなかろうが、散らかったものが最後に収斂せず、そのまま終わってしまう感じ。クライマックスに向けて盛り上げていく三浦しをん節を期待しすぎなのかもしれない。

コニー・ウィリス/大森望訳『ブラックアウト』『オール・クリア1』『オール・クリア2』(早川書房、2013)【ネタバレ注意】 [本と雑誌]

blackout.jpgallclear1.jpgallclear2.jpg

この長編について、何をどう書けばよいのだろう。

タイムトラベルが可能となった2060年のオックスフォード大学から、史学科の学生が調査のために空襲下のロンドンへ行ったが…という話なのだけど、3冊にわたる長い長い物語であるにもかかわらず、読みだしたらやめられないジェットコースターのようなスピード感、細部まで丁寧に書き込まれた戦時下のロンドン、そして、そこで繰り広げられるさまざまな人間の物語…というわけで、腰巻きには「SF」と書いてあるのだけど、SFであり、ファンタジーであり、恋愛小説であり、青春小説であり、プロジェクトXでもあるというような小説(何のこっちゃ)でともかく一気読み。

1冊目『ブラックアウト』の巻末はむろんのこと、2冊目の『オール・クリア1』、さらに3冊目の『オール・クリア2』の途中まで進んでも結末がまったく見えずにヤキモキする。しかし結末が見えてきたら見えてきたで「ええっ!!」の連続で、最後まで目が離せない。そして思いもよらぬラスト。重く、しかし温かい読後感が長く後をひく。
ストーリーの随所に、イギリス好きにはこたえられない小ネタが仕込まれているが、その著者がアメリカ人というのがこれまたびっくり。SF好きでなくてもアングロファイル必読。

この本に惹かれる理由は、たぶん次の2点。
1点目は、困難な状況下でがんばる(それも、硬直せず明るくがんばる←ここが重要)イギリス的なお話が好きであること(ってこの場合、まさにイギリスの話なのでイギリス的に決まっているのだけど)。史学生も、普通の人々も、滑ったり転んだりしながら明るくがんばっていて共感できる。
2点目は、作者もダンワージー教授も史学生たちも、英雄や大政治家や王様でない普通の人々がどんなふうに暮らし、どんなふうにふるまっていたかという点に研究テーマを(ひいては歴史を)見いだしていること(一応歴史人口学の学部生だったので、この視点は外せない)。

その上で、この本の完成度の高さを示しているのが、過去へタイムトラベルした史学生が周囲の人々とかかわることで、現実の世界がどんどん変わっていってしまうのではないか?という困難な問題―作中でも登場人物がこの問題に悩みつづける―に、上の2点とかかわる形で一応の答えを出していること。これが、SFとしての価値を保ちつつフィクションとしてリーダブルなものに仕上がっている理由だと思う。

また、読者の多くは登場人物の誰かに感情移入しながら読むのではないかと思うが、藪柑子的に3人の史学生の中では、やはりアイリーン・オライリー(メロピー・ウィード)かなと。あまりにもイギリス的というか、イギリスの読者がどう思うか聞いてみたい。

今野浩『工学部ヒラノ教授』(新潮文庫、2013) [本と雑誌]

工学部ヒラノ教授.jpg

よくある「文系」とか「理系」みたいな分けかたをした途端に見えなくなってしまう、数学者と化学者とエンジニアその他もろもろの人々の違い。エンジニアから見た数学者ってこういうふうに見えるのかと苦笑しながら読む。本書では大学や教員が相当程度実名で出てくるので、こんなことまで書いてしまっていいのだろうかとちょっとドキドキしながら読むのだけど、他方、イニシャルにされているけど容易に特定できてしまうのがこの人。

「東工大より過激だったのが、お茶の水女子大である。この大学では、「計算機言語を第2外国語と認定すべし(ドイツ語、フランス語などの第2外国語はいらない)」と主張する一般教育委員会委員長(これまた数学科のF教授)と文系教官の間で大バトルが起こったという。」(p.69)

母語がどんな言語なのか(言い換えれば、日本語の日本語たるゆえん)は、さまざまな外国語を学んだときに初めて腹に落ちるものなのに、第二外国語もやらずに品格が保てるんでしょうかねぇ>F先生

工学教育、というより大学教育全般にいま起こっている事態を次々に紹介してもらうと、なるほどその深刻な状況も理解できる。16章の「工学部ヒラ教授ほど素敵な商売はなかった」で、それまでのさまざまなエピソードで示されてきた事例がまとめ上げられるが、結論において至極もっともである。

その一方、本来の仕事と雑務って、そんなに截然と分けられるものだろうかとも思う。専門家と街場のサラリーマンでは前提が違うので比較のしようもないのだが。


ジェフリー・トゥービン『ザ・ナイン アメリカ連邦最高裁の素顔』(増子久美他訳、河出書房新社、2013) [本と雑誌]

ザ・ナイン.jpg
 英米法の初歩的学習にあたって、面白そうなエピソードが拾えればぐらいの気持で購入したが、エピソードどころではない浩瀚なノンフィクションで、しかも最高裁の9人の判事が交代しながら織りなす人間模様を大河ドラマのように描き出している。行き帰りの電車の中で読むにはちょっと重い(キッチンスケールで測ったら583グラムもある)のだけど、かまわず読み続ける。

 人はよく「アメリカは○○だから」的なことを言い切りたがるものだし、実際そういう傾向があることは確かであるとしても、これだけ激しいせめぎ合い―傾向Aと反Aが常に拮抗し、せめぎあい、時にわずかな差でAから反Aにスウィングする―中で、差引のわずかなA'だけが結論とされているのであって、アメリカ全体が金太郎飴のようにAだと誤解してはならないということが教訓。またこの拮抗こそが、逸脱からの復元力の源泉であって、そこにアメリカの強さがあるとみることもできる。

 …とか偉そうに書いているのだけど、実のところ、このぐらいの基礎も知らずに連邦所得税法について延々と論じていた自分の修論って何だったのかという冷汗も(恥)

 また、専門的知識に裏付けられたエディターシップと綿密な取材にも圧倒される。本人に丹念に取材しなければわからないようなエピソードや心境が次々に現れるのだから、ものすごい量の取材をして、そのほんの一部だけを使っているのであろう。しっかり裏をとっていることもうかがえる。そのような取材に応じる裁判官も、それを不思議に思わない国民もすごいが、何気なく読みすごしてしまいがちなこれらのことは、当節ネット上に溢れる「俺様的真実」の対極にあるものといえよう。

 日本語訳の読者のために一つだけ注文をつけるとすれば、米連邦最高裁が扱う訴訟は、もともと範囲が限定されている上に、その中から最高裁が選んだものに限られる(裁量上訴の制度)という点を説明してもらえば親切であるように思う。

 なお、訳者あとがきによれば、米国では本書の続編にあたる『宣誓―オバマ・ホワイトハウスと連邦最高裁判所』が2012年に刊行され、ベストセラーになっているという。これはぜひ読みたいところ。

メッセージを送る