So-net無料ブログ作成
検索選択

第104回深夜句会(1/12) [俳句]

初句会。
新しい職場を得て関西へ帰られる俳友の送別句会ともなった。

(選句用紙から)

疾走はみな美しく嫁が君

季題「嫁が君」で新年。家屋のねずみがいなくなったわけではないのだけど、こういう言い換え表現は、失われつつあることばのひとつかもしれない。句評では、「みな」が余計との意見があり、なるほどと感じる。「みな」と一般化する必要はなく、目の前にあるその疾走そのものを「美しきかな」としたほうがいいわけですね。


気味悪きひとりわらひの初笑

季題「初笑」で新年。自の句か他の句か判然としないのだけど―自の句であれば、さらに気味悪さが増幅されるのだけど―、この句の眼目は、多くの俳人が無意識に避けるであろう「気味悪き」という措辞をためらいなく使っているところにある。自分も含めて、「気味悪い」ことを眼前のどんな事実を通じて表現するかに心を砕くわけだけど、いきなり「気味悪き」とくる大胆さ。

恋人がゐても缶コーヒー大事

季題「缶コーヒー」で(無理やり)冬。句評でみんなから「これは無季でしょう!」と言われてしまったが、あえて冬の季題として鑑賞すると、なかなか味わい深い句ではないかと。とても寒い日で、恋人がそばにいるのだけど、買ったばかりの熱い缶コーヒーを両手で―手袋をしているのかもしれない―大事そうにかかえている。

(句帳から)

タラップをつぎつぎ降りる皮衣

カルテット [音楽]

TBSが、弦楽四重奏(団)を題材にしたドラマを放送しているではないですか。これは見ないと。


 

第103回深夜句会(12/15) [俳句]

(選句用紙から)

照るはうへ明るいはうへ浮寝鳥
季題「浮寝鳥」で冬。海や湖沼や川に浮かんで冬を過ごしている水鳥のこと。
その浮寝鳥が、ぷかぷか浮かびながら、少しずつ日がさして明るいほうへ移ろって集まっている。それ以上の説明はないのだけど、水面に明るいところと暗いところがあるということからして、例えば、川の上に高速道路の高架がかかっていて、ある部分だけが明るくなっている風景などが想像される。それでなくても寒い冬の川にたむろしている鳥が、その中の明るい、暖かいところへ少しずつ群れ集まっている様子を考えると、その浮寝鳥の心持なども感じられて、温かな一句。

荷台より新聞卸し息白し
季題「息白し」で冬。夜遅く、新聞販売店の前にトラックが止まると、待ち受けていた店員が次々にトラックの荷台から新聞を販売店に運び込む。夜の道路で作業をするその息が、販売店からの光を受けて白く光っている。冬の夜遅く、商店街の中でそこだけが明るくなっている風景。
ここで「卸し」としたのは、各戸へ配達するバイクや自転車ではなく、販売店へ運んでくるトラックであることを明確にするためと思われるが、バイクなら殊更に「荷台からおろす」とは言わないので、普通に「下ろし」で十分通じるように思う。

(句帳から)

絵に描いたやうなおでん屋路地の奥

プラジャーク弦楽四重奏団+山碕智子(Va) モーツァルト弦楽五重奏曲全曲演奏会 [音楽]

prazak.jpeg

1日で6曲全部が聴けるならと吉祥寺シアターへ。初めての会場だけど、文字通り劇場なのですね。
学生のころ、ブダペストSQ+トランプラーのLP盤を聴いてから、それが頭の中のモノサシになってきたのだけど、そのモノサシを置き換えるとまではいかなくても、なかなかに歌ごころのある演奏で、前後半5時間の長丁場もまったく苦にならない。「スメタナSQの後継者」という宣伝文句が呼び起こす印象は渋い、枯れた演奏だが、実物はもっとカラフルな演奏。

プロなので当たり前とはいいながら、縦の線がぴしっと揃っている演奏って、それだけですごいなあと思ってしまう。感想にもなっていないが、個人の力量が極限まで高まっていくと、「合わせる」という感覚なしにそれが実現できてしまうのではないかと。

(2016.12.3 吉祥寺シアター)

番町句会(12/9) [俳句]

(清記用紙から)

猫はもの言はぬがよけれ漱石忌

季題「漱石忌」で冬(12月)。「吾輩は猫である」は猫がさまざまな独白をする物語だけど、実際に飼い猫がしゃべることができたなら、うっとうしくてたまらないだろう。この句が多くの票をあつめたのは、この「もの言はぬがよけれ」への共感と思われるところ。

英国とも交へし干戈漱石忌

漱石は英文学者としてロンドンに留学したりもしていて、そこでさまざまなエピソードも生まれてきたのだけれど、時期としては日露戦争の直前にあたる。それから40年もしないうちに、日本はイギリスとも戦火をまじえたのだった。英国と「も」とわざわざ言う必要があるか、考えるところ。「アメリカと戦争をしたのだけれど、漱石が留学していたその英国とも戦ったのだった」という句意になるのだろう。また、「英国と」だと、一句の中心が上五中七に傾いてしまい、漱石忌がどこかへ行ってしまうという配慮かもしれない。

(句帳から)

冬の影曳いて二台のベビーカー
ポプラ一列冬野と冬野隔てたる
一時間半も歩いて狩の宿

加納朋子『我ら荒野の七重奏』(集英社、2016)【ネタバレ注意】 [本と雑誌]

septet.jpg

評判の高い新刊なのだけど、なじめなかった。理由は三つ。
・説明になってしまっていること。
・最後の設定(ちょうどぴったりな曲が見つかること)が都合よすぎること。
・音楽(楽曲)に対する思い入れが感じられないこと。

お芝居でいうと、役者さんの台詞や動作で表現してほしいことを、ト書きで一から十まで説明されている感じ。うん説明はわかったから、それで何がどうなるのかと期待して待っていると、説明だけで終わってしまう。説明を全部取り去ってしまって、台詞だけ残しておいても伝わらないものだろうか。そこを伝わるように書くのが作家の力量というものではないかと。

小説なので、どのような設定でも別にかまわないのだけど、弦楽四重奏ならともかく、木管七重奏の曲がそう都合よく転がっているわけがないでしょう。結局、設定が無理だと読者が共感できないので、小説の魅力を損なってしまうことになる。残念。

息子の演奏に涙を流す母親が何度も描かれるのだけど、それがどんな曲なのかほとんど描かれていないので、共感できない。ファゴットのソロはどんなメロディーでどのくらい続くのか?ホルンやクラリネットはどうしているのか?そもそも短調なのか長調なのか?ほとんどわからない。これでは、やはり思い入れの余地がない。音楽の解説書ではないので曲の内容に深入りする必要はないにしても、どんな曲をどんなふうに演奏しているのかわからないのは、吹奏楽を題材にした小説としては、やはり物足りない。


番町句会(11/11) [俳句]

きょうの兼題は「蕎麦刈」「鷲」。蕎麦刈りを目の前で見たことって、なかったような…

(清記用紙から)

蕎麦刈るやはるか低きに村の屋根

季題「蕎麦刈」で冬。山の斜面の段々畑で蕎麦刈りをしているのだけれど、ふと目を転じると、その段々畑のはるか遠く、ではなく、はるか下のほうに、村の家々の屋根がぽつんぽつんと見えている。
司馬遼太郎の小説(タイトルを失念した)の冒頭に、南信州のどこかの村についてのそのような描写があるけれど、まさにその世界である。
(もっとも、旧南信濃村の場合、山の上のはるか高いところに集落がある、不思議な風景なのだけど)

蕎麦刈るや虫やしないにメロンパン

それなりに広さのある蕎麦畑なのであろうか。蕎麦刈りの途中でちょっと休憩をとなったのだけど、そこで虫やしないにメロンパンをいただいた。握り飯とか海苔巻とかあんぱんじゃなくて「メロンパン」だというところにこの句の面白さがあって、専業でやっている老農夫だったらメロンパンなんか頬張らないだろうから、メロンパンを買ってわざわざ畑に持って行く人といったら、若い人であろうか。ひょっとして素人が、面白半分でやっているのかもしれない。そんな蕎麦刈りの様子がうかがわれる。

鷲が提げゆけるだらりとしたるもの

季題「鷲」で冬。鷲がその爪に獲物をとらえて運んでいくのだけど、その獲物はすでに動きを失って、だらりとぶら下がっているように見える。ちょっと前まで生きて動いていたであろうその小動物を「だらりとしたるもの」と捉えたことで、食う側食われる側の非情な戦いがかえって際立っている。

(句帳から)

蕎麦刈を了へて集合写真かな

横田庄一郎「チェロと宮沢賢治―ゴーシュ余聞」(岩波書店、2016) [本と雑誌]

gauche.jpg

「セロ弾きのゴーシュ」といえば、宮沢賢治の童話の代表作のひとつである。そしてその作者である賢治は、たいそう音楽好きであって、自らもチェロを弾こうとしていたことが知られている。本書は、賢治が実際に、どのくらいチェロを弾きこなしたのか、上京して手ほどきを受けたというが、それはどのような状況だったのか、といった「宮沢賢治とチェロ」にしぼった論考で、大変面白く読める。

生前の賢治を知っている人々が存命のうちにこうした記録を残しておくことは、賢治の正確な姿(神格化されず、また不当な取り扱いもされない)を知るためには重要なことで、文学者や文芸評論家でなく、音楽について詳しいジャーナリストがこのように丹念に取材を重ね、記録を残してくれた(初版は1998年で、本書は岩波現代文庫からの再版である)ことに感謝したい。

本書の指摘ではっとさせられたのは、「セロ弾きのゴーシュ」についての、次の部分である。
(以下引用。128ー129頁)
------
このあと仲間のみんなが「よかったぜ」とゴーシュにいうと、向こうでは楽長が「いや、からだが丈夫だからこんなこともできるよ。普通の人なら死んでしまふからな」といっていたと、賢治は書いている。
ゴーシュはからだが丈夫だからできたのだが、賢治はあれほど熱中したチェロの独習半ばに病に倒れ、そうなることを夢見ながらもとうとうできなかった。唐突に出てくる「普通の人だったら死んでしまふからな」というくだりは、まさに死んでしまう賢治が書いているのである。普通の人とは、これを書いた賢治自身のことではないか。死ぬ少し前まで『セロ弾きのゴーシュ』の原稿に手を入れていた(宮沢清六『兄のトランク』)ことを思い合わせると、このくだりには感無量という以外に言葉が見つからない。
------
(以上引用終わり)

賢治は、死の直前までこの作品に手を入れ続けていて、現在われわれがよく知っている文面は、その最終形だというのだ。
もしそうだとすると、確かに、物語の終わりちかくにあるあの一節は、ニュアンスが全く違ってくる。
校本全集をあたって、まず、現在われわれが目にする文面をもう一度確認。

(ここから引用。「校本宮澤賢治全集第10巻」(1974、筑摩書房)219-234頁)
----------------------------------------------------------------
「ゴーシュ君、よかったぞお。あんな曲だけれどもここではみんなかなり本気になって聞いてたぞ。一週間か十日の間にずいぶん仕上げたなあ。十日前とくらべたらまるで赤ん坊と兵隊だ。やろうと思えばいつでもやれたんじゃないか、君。」
 仲間もみんな立って来て「よかったぜ」とゴーシュに云いました。
「いや、からだが丈夫だからこんなこともできるよ。普通の人なら死んでしまふからな。」楽長が向うで云っていました。
---------------------------------------------------------------
(以上引用終わり)

この部分が、初稿では以下のようだったというのだ。

(ここから再び引用。前掲校本全集501-502頁)
---------------------------------------------------------------
「ゴーシュ君、よかったぞお。一週間か十日の間にずいぶん仕上げたなあ。十日前とくらべたらまるで赤ん坊と兵隊だ。やろうと思えばいつでもやれたんじゃないか、君。」 
仲間もみんな立って来て「おめでたうおめでたう」とゴーシュに云いました。
---------------------------------------------------------------

つまり、確かに「いや、からだが丈夫だからこんなこともできるよ。普通の人なら死んでしまふからな。」の一節は、初稿にはなくて、あとから加えられたものだったのですね。

それでは、初稿はいつ書かれ、あとからあの一節が書き加えられたのはいつなのだろうか。初稿は、賢治が病気で倒れる前に書かれ、病気になってからあの一節が加えられたのだろうか。
どうもそうではなく、初稿も病気になってからのようだ。前掲「校本全集」によれば、現存草稿32枚のうち22枚目には「東北砕石工場花巻出張所用箋」の裏面が使われているので、賢治のためにこの出張所が開設された1931年2月以降にこの部分が書かれたことは明らかである※。賢治はこの年の9月に東京へ出張中にで倒れて花巻に戻ってから再び病臥生活となり、1933年9月21日に亡くなっているのだけど、おなじ22枚目の表面には、1933年4月2日の同級会(同窓会)への欠席連絡の下書きが残っているという(483頁)から、この時期に書かれた可能性もある。そうすると、さきほど引用した箇所は全体の最後の部分、つまり草稿の31枚目と32枚目にあたるので、初稿が書かれた時点(1931年2月から1933年9月までのどこか)において、既に賢治は死を強く意識していたと思われる。そこへさらに、「いや、からだが丈夫だから…」と加筆して現在の形に修正した賢治の絶望感(といっていいのか)考えると、粛然とせざるを得ない。

(※ただ、この作品は必ずしも頭から順番に書かれたわけではなく、最初に書かれたのはねずみのエピソード、次が猫のエピソードの一部、三番目がかっこうのエピソード、四番目が猫のエピソードの一部、五番目がそれ以外の部分であることがわかっている)。

この他にも、冒頭でゴーシュをいびり倒す「楽長」のモデルがあの人――クラシックの世界では超有名なあの人――ではないか、とか、野ねずみのこどもが入った「チェロの孔」とは実は、とか興味深いエピソードがいっぱい。賢治ファンならずとも読んで損はない一冊。




第102回深夜句会(11/10) [俳句]

(清記用紙から)

猪が蚯蚓を掘りに来る御庭

季題「猪」で冬。蚯蚓も夏の季題だが、ここでは猪が一句の中心。山から現れた猪が畑のあれこれを食い荒らしたり、あちこちで悪さをするのだけれど、それが、名園といわれるようなお屋敷のお庭に入り込んで、蚯蚓を掘り散らかしている。いまそのお庭にいて、ここが猪に掘り返されたところです、などという話を聞いているところ。

「御庭」とすることで、単にそのへんの民家の庭先に入り込んだのではなくて、庭園として管理されているところとか、あるいは大きなお屋敷に付属する庭であることがわかる。そんなところまで猪が現れて、という気持ちの動きもあるのだけれど、それを表に出してあれこれ言わなくても、こんなところに猪が、という感じはよく伝わっている。

土嚢から草生えさらに帰り花

季題「帰り花」で冬。狂い咲きの意で、単に帰り花といえば桜の狂い咲きをさすのだけど、この句ではどうか。
大水のときにつまれた土嚢から芽が出て草が生え、「さらに」帰り花、としたことで、自分は「その草がさらに、ときならぬ花を咲かせた」と読んだのだけど、「草生え」でいったん切れて、さらに「桜の帰り花」ではないかとの指摘もあって、確かにそうとも読めるなあと。

鳩サブレ膝に小春の南武線

季題「小春」で冬。南武線といい鳩サブレといい小道具で読ませるのかと言われそうだけど、しいて解説しろと言われれば、東海道線や中央線とちがって短時間で乗り降りする人が多いことから、あわただしい中にも、紙袋を膝にのせてひと駅かふた駅電車に乗りながら、冬のはじめのよい天気をひととき愉しんでいると感じられる点だろうか。じゃあ「総武線」ではダメなのかといわれるとウーンなのだけど、少なくとも「五能線」はないことは了解されるわけで。


(句帳から)

忘れ物取りに戻つて今朝の冬
カフェの窓すこし濡らして夕時雨


第101回深夜句会(10/13) [俳句]

(選句用紙から)

雨だれの地に触るる音蚯蚓鳴く

季題「蚯蚓鳴く」で秋。地虫鳴くとか蚯蚓鳴くとかって、実際の虫の音というより、何かそのような音がするように感じられる、という趣旨なのだけど、ここで描かれている風景は、秋の雨が降り続いていて、その雨だれが地に「触れる」そのあるかないかの触れる音がずっと続いているのと呼応するように、蚯蚓の鳴く音が続いているように感じられる、という句意。巧みなのは、地を穿つ音とか地に跳ねる音とか(ぴちゃっという音)ではなく、あるのかないのかわからないような、地に「触るる」音、を持ってきたところ。どんな音なのであろうか、と読み手は一瞬考えるわけだけど、その「どんな音なのであろうか」がそのまま、蚯蚓鳴くにつながっていく。

かつて見し案山子を描いてくれにけり

季題「案山子」で秋。ちょっと入り組んだ状況で、目の前に案山子があるわけではなく、自分と話している誰かが、かつてどこかで見た案山子を絵に描いてくれた、ということか。その案山子が、よほど変った姿かたちをしていたのであろう。それがどんな形なのか一向にわからないところに弱点があるのだけど、広告の裏とかスケッチブックとかに風変わりな案山子の絵を描いて、自分のために説明してくれた、という一連の所作に感興を覚える、ということなのだろう。


(句帳から)

やや寒や街灯の下長電話
四十雀小学校の日曜日

祝・本の雑誌400号 [本と雑誌]

201610.jpg

この10月号で『本の雑誌』が創刊から通算400号に到達。いろいろな雑誌を定期購読したけど、ずっと続いているのは『図書』と『本の雑誌』だけ。
400号を単純に12で割ると、33年と4か月で達成できることになるけれど、途中までは隔月刊(さらにそれ以前は不定期刊)だったので、創刊から数えるとずいぶんな年月が経っている。書泉グランデ1階の平積みを手にとって「何だこの雑誌は!」と驚いたのが1983年なので、もう33年も前のことになる。

今月号で一番面白く、感心させられたのが堀井憲一郎さんの「岩波文庫〔緑〕の欠番を調べてみる」で、これは本好きの人なら誰でも、気にかかっているけどちゃんと調べる機会がないテーマといったら大げさか。何番が(=どの作家が)、いつ欠番になったのか(1927年の創刊直後なのか、ごく最近なのか)って、一出版社の品揃えの話ではあるが、作家の社会による受け入れられ方の変遷を表しているわけだから、調べたらすごく面白いと思う。逆に、どの作家がいつ岩波文庫に新たに収録されたか、も面白いだろう。この「ホリイのゆるーく調査」のコーナーは、ともかく単純なモノサシでどんどん調べていくところがいい。ちなみに自分がこれを調べろと言われたら、毎年の岩波文庫解説総目録をさかのぼって調べるのが正確なのだろうが、あの総目録って図書館に所蔵されているのだろうか。
それにしても、緑の1番って、仮名垣魯文だったのですね。知らなかった。

これに対して、坪内祐三氏の「変わりゆく出版社と変わらない出版社」でも岩波文庫の話が出てくるのだけど、こちらはみごとなまでに「主張はあるが、例示も根拠もないので理解不能」な代物なのだ。具体的には、

(ここから引用。21頁中段〜下段にかけて)
-----------------------------------------------------------
それから岩波書店もクオリティーを維持している。
いやむしろ、私の学生時代と比べて上っている。
特に岩波文庫。
私の大学時代、岩波文庫の新刊のレベルはひどかった。そのひどさを私は学生時代にミニコミ誌『マイルストーン』で書いたことがある(二十枚を超える大論文だ)。編集部に百円を越える切手を同封して手紙くれればそのコピーを送ってあげる。
ところがこの二十年ぐらい(ちょうど私が『週刊文春』に「文庫本を狙え!」の連載を始めた頃から)そのクオリティーが上り、しかもそれをキープしているのだ。『文庫本を狙え!』は出来るだけヒイキなく色々な文庫を紹介したいのだが、気がつくと岩波文庫に片寄ってしまう。
-------------------------------------------------------------------
(ここまで引用)

・私の大学時代って、いったいいつですか。「昭和40年代から50年代前半にかけて」みたいな書き方はできないのですか
・岩波文庫の新刊のレベルがひどかった、って、それ造本の話ですか、セレクションの話ですか。まあセレクションの話だと思うのだけど、たとえばどんな「ひどい」新刊を出していたのでしょう
・それを知りたい読者は、編集部まで100円を超える切手を送らないと教えてもらえないのですか
・で、20年前ぐらいからそのレベルが向上したというのだけど、これまたたとえばどんな新刊がそれに該当するのですか

例示も根拠も何もないので、合点がいかないし、これ読んで共感しろとか楽しめといわれても無理だ。
この雑誌の読者は、程度の差はあれ本を読むのが好きなのだから、坪内氏が何をもって岩波文庫を持ち上げたり落としたりしているのか、せめて表題を示せば、根拠は示されないにしてもそうだねとか違うねとか反応することができるのだけど、それさえないのでは、どうにもならない。
こんな与太話にどうして付き合わなければならないのだろう。

第100回深夜句会(9/15) [俳句]

めでたく第100回。写真を撮り忘れたのが残念。

(選句用紙から)

石灰のラインの白し花木槿

季題「槿」で秋。運動会でもあるのだろうか、校庭やグランドに石灰で白い線が引かれているが、その横の塀際だかフェンス際には、木槿の花が群れ咲いている。石灰の線なのだからもともと白いのは当たり前ともいえるところ、その「白」がことさら白く感じた、というところに詩心があって、そこが木槿の白い色とも重なっているのですね。

秋草をテーブルごとに違う色

季題「秋草」で秋。テーブル「ごと」と言っているので、自宅とかではなく、多くのテーブルを擁する場所、例えばレストランのような場所が想像される。そこへ秋草、たとえば桔梗とか女郎花とかを卓上花として飾るのだけど、テーブルごとに異なる草花をいけた、という句。自分や自分のスタッフがそのようにいけた、という立場で詠んでいるのか、それともお客として訪ねてみたらこうだった、という立場で詠んでいるのか判らないところが残念だが、秋の草花のさまざまな色が感じられる一句。

(句帳から)

青山のカフェのバケツの叢芒
脱毛サロン育毛サロン爽やかに
かなかなのいつもデクレッシェンドかな

イギリス人が誇るもの [雑感]

イギリスの大手調査会社Ipsos MORIが7月26-29日(=国民投票の約1カ月後)に成人1,099人にインタビューした調査結果が、いかにもイギリスらしくて面白い。

https://www.ipsos-mori.com/researchpublications/researcharchive/3776/Six-in-ten-prefer-to-be-British-than-of-any-country-on-earth.aspx

最初の質問は、「イギリスのよいと思う点、悪いと思う点は何か」というもので、これに対する答は、
よいと思う点としては、
1) ユーモアのセンス(47%)
2) 礼儀正しさ(40%)
3) 異なる社会集団への寛容さ(27%)
4) 愛国心(26%)
5) フレンドリー(25%)
の順にあげられている。半分近い人が「自分たちにはユーモアのセンスがある」と考えているのですね。まぁ確かに、イギリスのユーモアってじわっとくる何かがあることは確かだと思う。嫌味を言うときなんかにもね。2位が礼儀正しさ…金融業のみなさんの行状は礼儀正しくないけど、行列をきちんと守るところとかはそうですね。"Is this the end of queue?"っていう質問をイギリス以外で聞いたことないもんな。

逆に悪いと思う点としては
1) 酒を飲みすぎること(42%)
2) 他の文化に対する無関心(37%)
3) 文句を言いすぎること(27%)
4) 異なる社会集団への不寛容さ(22%)
5) 怠惰(19%)
の順にあげられていて、長所の3)と短所の4)が同じことがらなのが面白い。同じ状況について、それぞれ4分の1ぐらいの人が逆の評価をしているわけですね(それにしても、5位の「怠惰」ってなんなんだ…)。

それよりなにより驚いたのは、その次の「イギリス人として最も誇りに思うものは何か」に対する回答で、歴史とか王室とか英語とか海軍とか株式会社(のしくみ)なんかが直感的に予想されるところ、第1位に挙げられたのは、
1) The NHS(48%)
だったこと。しかも48%って、イギリス人の半数近いではないですか。
ちなみにOur historyは2位(44%)、The Royal Familyは3位(29%…思ったほど支持されてない)で、これらを抑えて堂々の第1位なわけなので、Brexit直前のプロパガンダ合戦でNHSが取りざたされていた点を差し引いても、この見識は大したもの。爪の垢を煎じて、アメリカの某大統領候補者とか日本の某炎上芸人に飲ませたいところ。

なお、The free press/mediaが7位(14%)、The BBC(13%)が8位に入っていることも、イギリス人らしいなあと思う。こういう嬉しいことがあるので、イギリスおたくをやめられない。



番町句会(9/9) [俳句]

きょうのお題は「太刀魚」「葛の花」。このところ毎回、締切ぎりぎりに到着しているので、席について数分以内に句を詠んで提出するのは、なかなか体に悪い。

(選句用紙から)

家墓は畑の中に韮の花

季題「韮の花」で秋。白く群れ咲く花ですね。
畑の一角を切り取るように小さな墓があって、そこが一家一族の墓地になっている。ここでの畑は、北海道の広大な畑よりは、たとえば南信濃あたりの、山の上まで段々に耕されている中に家が点々とあるような、小さな畑の一角なのだろう。で、その小さな墓、小さな畑、小さな家のある風景のなかに、いま韮の花が白く咲いている。

花葛や初心(うぶ)は濃ゆきを慕ふもの

こういう変化球は楽しい。季題「葛の花」で秋。ちなみに葛は秋の七草でもある。
葛の花は、竜が頭をもたげるようにして下から咲いていくのだが、花の色は一様でなく、淡い花片(あれは花片なのか?)と濃い花片がみっしり集まって咲いている。そこで目だたしいのは、当然に濃い部分であって、葛の花といったらまずその濃いところに目が行くのだけど、淡い部分、内側の黄色い部分も含めて全体のすがたかたちこそが葛の花なのである。

…と書くとなんだか当たり前だが、この句のもう一つの意図はむろん、「初心」の男子が「濃ゆき」女子を慕ってしまうというところにあって、うふふなのである。それがあまりに前景化するとうるさい俳句になってしまうところ、主調はあくまでも葛の花を愛でる話なのであって、そのコントロールはとても難しい。私のような素人がやれば、ベタベタになってしまうか、遠すぎてなんだかわからない俳句になってしまいそう。


(句帳から)

車道から歩道へ溢れ秋出水
いやでもと言いかけてやめ秋暑し
秋麗や電車カーブを曲がり終へ

OS撤退 [雑感]

OS(オーストリア航空)が日本から撤退。
長い間運航を続け、サービスの品質も高く、日本からウィーンやザルツブルグを訪ねようとする人にとっては、ファーストチョイスとして挙げられる航空会社だっただけに残念。
撤退の理由は何なのでしょう。採算がとれないとすると、オーストリア側に、あまり日本へ出かける需要がないのですかね。それとも、もっと利益をあげられる就航先に振り向けられたということなのですかね。

OS.jpg
メッセージを送る