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第121回深夜句会(6/21) [俳句]

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(選句用紙から)

ふるへてはさらにねぢれんねぢればな

小さく細い花であるのに、ちゃんと勢力を拡大して生命力にあふれているのがねじ花なのだけど、それが風でふるえるたびに、いっそうねじれていくように見える、という句。ピンクや紫の微細な旗のような花がぐるぐるねじれていて、それが風に揺れているというところが、実景でありながら少しファンタジーめいた雰囲気をかもしだしている。


オリーブの花の終ひの日曜日

「オリーブの花」で夏なのだろう。よく見ないと咲いていることに気づかないような小さな白いオリーブの花が、ようやく茶色く干からびるようにして咲き終わると、やがて実がつくのだけど、いつ咲き始めていつ咲き終わったのか判然としないようなオリーブの花の「終い」が下五と響きあう。たとえばこれが「山桜花の終ひの日曜日」とか「山茶花の花の終ひの日曜日」だと、どうもしっくりこない。


(句帳から)

予備校の窓より見ゆる茅の輪かな
総督府ゆつくり回る扇風機
梅雨寒や夜の水銀灯の色


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第120回深夜句会(5/17) [俳句]

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(選句用紙から)

耕運機の跡の斜めに代田かな

季題「代田」で夏。まだ苗を植える前の、水を張った田んぼに、それとわかる程度に耕運機の跡が盛り上がっている。なにげなく読むと「ふーん」で終わってしまうのだけど、耕運機の跡が盛り上がるのは、耕地の形が不整形で、耕運機がしばしば方向転換を強いられるからであることを思うと、「そういう田んぼが連なっている風景」が思い出される。

遠足の子をかきわけて降りにけり

季題「遠足」で夏。朝の通勤電車から下りようとすると、その駅から乗り込もうとする幼稚園児か保育園児が先生に連れられておそろいの帽子で、勢いよく乗り込んでくる。おいおい下りる方が先でしょ、と苦笑しつつも、「かきわけて」下りたのだった、という句。東京近辺でも、朝のホームに整列して、何本かあとの電車を待っている風景をよく見かける。

(句帳から)

順番に離陸してゆく夏霞
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番町句会(5/11) [俳句]

きのうまでの寒さから一転して、汗ばむ陽気。体がついていかない。

(選句用紙から)

二坪に満たぬ畑や麦の秋

どんな畑なのですかね。麦を植えていることからして、家庭菜園とかではないとすると、道路際とか斜面とかで、わずかな場所で一区画になっている畑(道路の拡張工事なんかで、もっと大きな田畑だったのが不自然な形の小さな区画になってしまっているような場所)であろうか。
その「二坪にも満たない」小さな畑に、全体が持ち上がるようにして麦が薄茶色に稔っている。小さな区画であるだけに、その立体感ともいうべきものが明瞭に感じられる。

春の雲風に押されて北へ北へ

南から北に風が吹いているのだろうか。「北へ北へ」という散文的な表現が一句の眼目でもあり、人によっては採れない理由でもあろう。「春の雲」にありがちなイメージとはちょっと違って、急速に吹き流されている雲の様子。

(句帳から)

十薬の蘂ことごとく上向きに
薔薇色の薔薇といふほかなき真紅
野茨の花の白さや校舎跡
蔓薔薇の白の濃淡連なれる

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royal weddingの音楽 [音楽]

英国国教会の結婚式で「スタンド・バイ・ミー」の衝撃はすごかったな。それもゴスペルですから。次男坊は自由がきいていいな、とはウィリアムさんの陰の声…なわけないか。感じのよい結婚式でした。

イギリス王室の典礼の音楽というと、古くは「王宮の花火の音楽」とか「水上の音楽」あたりまでさかのぼることになるのだろうけど、きょう聴いたなかでは以下の2曲がいかにもな選択。

まず、The Dean of Windsorの式辞のあとに歌われた歌って、賛美歌「Be Thou My Vision」として知られる曲(もとは"Slane"というアイルランド民謡)だと思うのだけど、公式発表では「Lord of all hopefulness..」と 全然違う歌詞になっているのですね。こちらのタイトルで検索してみると、「礼拝式、結婚式や、葬儀のはじまりに歌われる讃美歌」と書いてあるので、どちらの歌詞でもよいから、自分のお葬式にぜひこの曲を演奏していただきたく。

次に、カンタベリー大主教の説教のあとに歌われたのは、これはもうウェールズを代表する賛美歌のひとつである「Cwm Rohndda」ですね。ラグビーの五カ国対抗(いまは六カ国対抗か)でおなじみというか、映画「わが谷は緑なりき」の、あの歌です。お兄さんの結婚式でも歌われていたような記憶が。



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第119回深夜句会(4/19) [俳句]

投句を準備するため「マメヒコ」でお茶をいただきながら掲示物を見ていてびっくり。宇田川町店(旧渋谷店)が6月末で閉店するという。これはたいへん残念。

(選句用紙から)

朝寝しておからを口に含みけり

春の休日の至福。ゆうべの残りのおからであろうか。なんだったら、朝からすこし酒をいただいてもいいぐらいの気分。夏や冬は論外だし、秋よりも春のほうが「はまる」ので、季題が動かないことにも感心する。

裏山のシンボルの木の蔦若葉

季題「蔦若葉」で春。
家か学校か、勤め先なのか、その背後に「裏山」といえるような起伏があって、さらにその「裏山」に、シンボルと目される大きな木が植わっている。で、そのシンボルの木がどうなったかと思いながら読んでいくと、その木に蔦が巻きついていて、それが一斉に若葉を生やしているという一句。木はまだ芽吹いていないのか、それとも常緑樹なのかは定かでないが、ともかくシンボルツリーの蔦若葉だという。一見、それがどうしたのと言われそうだが、作者と「シンボルの木」のあいだに、ちょうど蔦若葉が見て取れるぐらいの距離があること、また「シンボルの木」が認知されるような共同体の存在など、背景から汲みだせることは多い。

わが猫の一匹をらず月朧

季題「朧月」で春。
帰宅してみると、何匹かの飼い猫のうちの一匹が見当たらない。外は朧月夜。さてどこでどうしているのか、ちょっと心配しつつも、外でデートを楽しんでいるのかとも思ったりする。人によっては「月朧」がつきすぎと感じられるかもしれないが、私にはほどよいファンタジー風味(ここでほどよいとは、狙ってそうしたものではなく、結果としてそう感じられるという意味)で好ましく思われる。

(句帳から)

高尾行河口湖行山笑ふ
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第118回深夜句会(3/22) [俳句]

(選句用紙から)

味噌汁の匂うてきたる春の寺

ほろほろとおからをこぼす春ともし

椿咲きまた椿咲き落椿

(句帳から)

祖母と母住んでゐた家桃の花
バス停の前の畳屋春の昼
げんげ田の中を片側三車線



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第117回深夜句会(2/22) [俳句]

(選句用紙から)

料峭の公園に人来ては去る

季題「料峭」で早春。春寒しとも。真冬でなく春なので遊びに来る子もいるのだけど、ほんとうに暖かいわけではないので、すぐまたいなくなってしまう、と書くと理屈に陥ってしまうのだけど、ここでは、ずっとその公園(または隣接した場所)にいる作者の視点―なぜそこにいるかは示されていないのだけど―を好ましく感じる。

町騒の内にうするる薄氷

季題「薄氷」で春。薄氷が「うするる」ってどうなの、と言われそうだが、町のさまざまな喧騒のなかで、顧みられることもなく形を消していく薄氷を描いて過不足ない。


(句帳から)

比良八荒二両の電車往けるかな
畦道の先耕してゐるにほひ
 


 
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池澤春菜が選ぶ池澤夏樹の10冊(『本の雑誌』417号) [本と雑誌]

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池澤春菜さんは以前から『本の雑誌』誌に書評を寄せられていたので、いずれ実現すればいいと思っていた“夢の企画”がついに登場。池澤夏樹ファン、池澤春菜ファン、ついでに福永武彦ファンもただちに書店に走るべし。

まず、池澤夏樹のたくさんの著作(翻訳や編集を含めて)をよく読んでおられることに驚く。ここで10冊全部を紹介するとネタバレになってしまうのでやめておくけれども、ひとつだけ紹介すれば、数ある著作から「最も長い河に関する省察」を選んでくれたことに感謝。あれはバックパッカー必読の一冊だと思う(36年前の本で、現在は入手不能だが、同じ版元の『池澤夏樹詩集成』で読むことができる)し、あの中に入っている「午後の歌」には幼いころの池澤春菜さんが詠まれている。

ちなみに藪柑子が選ぶ池澤夏樹の10冊は、以下のとおり。特に順位はない。
『池澤夏樹詩集成』(書誌山田、1996)
『タマリンドの木』(文藝春秋、1991)
『南鳥島特別航路』(日本交通公社、1991)
『むくどり通信』(朝日新聞社、1994)
『ハワイイ紀行』(新潮社、1996)
『パレオマニア 大英博物館からの13の旅』(集英社、2004)
『異国の客』(集英社、2005)
『風神帖』(みすず書房、2008)
『骨は珊瑚、眼は真珠』(文藝春秋、1998)
『言葉の流星群』(角川書店、2003)

本を読む時間がほしい。





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第116回深夜句会(1/18) [俳句]

(選句用紙から)

鍵盤の沈めば響く冬館

季題は一応「冬館」で冬。「夏館」ほど定着しているのか微妙な季題だが、冬らしく設えたり備えたりした邸宅と読むのだろう。その冬館にオルガンかチェンバロかピアノか、鍵盤楽器が備え置かれていて、それが弾かれると、館内によく響く。室内に充満している冬の空気感とか、固い床板の冷たい感じとかが「響く」から連想され、そうすると冬館自体も、たとえば牧師館のような建物であろうかと想像される。楽器を「弾く」といわず、鍵盤が「沈む」としたところがよいのだろう。ただ、「沈めば」だと自然に沈んだようにも読める。くどく言えば鍵盤を「沈めたので」となるところか。


雨粒の細かく砕け寒の雨

季題「寒の雨」で冬。雨粒が細かく砕けているのは当たり前のように読めてしまいがちだが、この句では霧雨のような細かい雨をさしているのではないかと。厳寒の日々に降る雨ではあっても、必ずしも大粒でたたきつけるような雨ばかりでなく、細かく静かに降る雨もまた「寒の雨」である。


味噌汁に冬菜の色の濃くありて

季題「冬菜」で冬。味噌汁の鍋に入っている冬菜(白菜、小松菜、壬生菜など)が色濃く感じられる。万物枯れ果てたこの時季に、ふと目に留まった生命感。


(句帳から)

風花や湖にある船着場


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上田信治句集『リボン』(2017、邑書林)を読む [俳句]

上田信治さんから、句集『リボン』をご恵贈いただく。ありがとうございます。

あとがきによると「この句集は六つの章に分かれています。ざっくりとした書き方の違いで、分けました。」とあって、実際さまざまな手法が試みられているのだけど、ベースにある「上田ワールド」とでもいうべきものは、どの章でもそう違ってはいないように思われる。

吾亦紅ずいぶんとほくまでゆれる

季題「吾亦紅」で秋。吾亦紅が揺れている、という句はいくらもありそうに思うのだけど、「とほくまで」がこの句の眼目。「大きく」とか「左右に」とか言わないで、わざわざ「遠くまで」と述べることで、あたかも吾亦紅がいまいる場所を遠く離れてまで揺れているかのような錯覚を覚えたり、そこまでいかなくあても「あっちのほうまで」揺れているという距離感が楽しめる。
また、吾亦紅は丈の低い草なので、「とほくまで」というと、作者の視点が草の高さと同じところにあることも感じられる。

水よりも汚れていたる氷かな

季題「氷」で冬。冬の川なのか池なのか、全部凍ってはいなくて、水面がのぞいているのだけど、その氷の部分が存外きたない。動いている水のときには気にもとめなかった濁りや浮遊物などが、いったん氷として固定されたとたんに、色や形としてまがまがしく目についてしまう。
氷は透明できれいなもの、というお約束があるとすれば、そういうお約束から遠く離れて、ただ眼前の事実として描くことで、氷の性状をよく言い得ている一句。

すぐそこに灯台のある葱畑

季題「葱(畑)」で冬。どういう葱畑なのかはわからないが、「すぐそこに」灯台があるというので、海が間近で、それも大都会ではなく灯台があるような地域だということになる。
葱畑の「すぐそこに」灯台があるので、畑のどこにいても灯台の白い壁面がどーんと視界に入ってくる。その白い壁と冬の青い空のコントラストがさらさらした感じで、葱畑の色と好対照。

ま上から見るガス工事冬の雨

「ま上から」がどこかは書かれていないが、歩道橋とかではなく、ビルの一室から見ているのだろう。そうすると、ビルが面しているその道路が掘り返されて、土の中からガス管が吊り上げられたり、新しいものが埋められたりしているのだけど、そこに冬の雨が降り注いでいる。その冬の雨のさむざむとした感じが、歩道を通りがかって見たときの風景から感じられるものとは違った意味で寒さとして感じられた、というところに眼目があるように思うし、読者の共感を得るのだと思う。

韮の花すこし歩けば沼だといふ

季題「韮の花」で秋。小さい白い花が初秋にいっぱい咲くのだけど、この句の場所はどんな場所なのだろう。すれ違う人が「ここからは見えないけど、このすこし先に沼がありますよ」と教えてくれたということから、国道とか県道というより、公園の散策路とか山道のような場所であろうか。近くに沼があるような水辺の森か野原を歩いている作者の立ち位置が、何も説明しなくてよく描いている。下五の字余り「といふ」も、他者の存在を強調していて効果的。




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番町句会(1/12) [俳句]

(選句用紙から)

寒の雨湛へ佛足石閑か

季題「寒の雨」で冬。寒中に降る雨。
もっとも寒い季節に降る雨が、お寺の境内であろうか、仏足石(石に刻まれた釈迦の足跡)にうっすらとたまっている。その仏足石も、降り注ぐ雨も、寺院の境内全体も、「閑か」だというのである。真夏や台風の激しい雨とは違う、静かに降り続く雨と、それを受け止めている静かな寺院の風景。

冬ざれの苑に娘と二人で来

季題「冬ざれ」。
春や秋には薔薇や桜が咲き誇って多くの人が訪れる庭園も、冬には花も乏しく、彩りにも欠けて人影もまばらになる。その庭園に、きょうは娘と二人でやってきた。父と娘でも母と娘でもいいのだけど、冬ざれという季題からは、父と娘が言葉すくなに時々やりとりをしている様子などが想像される。虚子の「我一語彼一語秋深みかも」(六百五十句)を思わせる一句。

(句帳から)

蝋梅をバケツに活けてブックカフェ
五叉路から車つぎつぎ春近し
かんじきの結はえられたるリュックかな

 
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井田良・佐渡島紗織・山野目章夫『法を学ぶ人のための文章作法』(2016、有斐閣) [本と雑誌]

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本のタイトルは『法を学ぶ人のための…』だが、むしろそれ以外の人が読むべき内容かと。なぜならば、法を学ぶ人は遅かれ早かれ司法試験で文章力が試されるのに対し、それ以外の大多数のひとびと(藪柑子もその中に含まれる)は、文章作法のトレーニングをする機会もほとんどないまま社会に放り出されるわけで、しょうもないハウトゥー本を読むくらいなら、本書のほうがずっと役に立つのでは。

強く印象に残ったのは、「段落の用い方」という箇所(PartⅢ-4)に出てくる著者のつぶやきである(この章は、山野目先生が書かれている)。

(以下154ページから引用)
本当は,「どこで改行するかをよく考え……自覚的に段落の機能を設定する必要がある」(→PARTⅡ2)。喫煙者自身の健康への影響と,受動喫煙とを段落を改めて論ずることは意味があるにちがいない。否,段落の取り方は,それしかないであろう。イ・ウ・エを改行しないで続け1つの段落とし,その忍耐の後に,今度はオ・カ・キを1つにまとめる,ということすらできない,ひ弱な知性の若者たちに場合によっては司法権力を委ねなければならないとしたら,それは,私たちの文明の大問題ではないか。
(以上引用終わり)

文の終わりで、ここで改行するか?それとも意味上のまとまりを考えて改行せずに続けるか?という選択は、書き手の側では常に発生するのだけど、それを読んで採点する側は、ここまで熱意をもち、またつきつめて考えているのですね。幸か不幸か、藪柑子は若者ではなく、また司法権力を委ねられる心配も皆無なのだけど、そうであっても、こういう惰弱なブログを開設して、明確でも合理的でもない文章を、段落の設定も考えずに適当につづっていると、やがて地獄送りになりそうである。反省。


もう一つ、これは内容自体の適否というよりその例えの重さに遠い目になってしまうのが、イントロダクション(この部分は、井田先生が書かれている)で、こんな表現がある。

(以下3ページから引用)
よく知られた喩えをここで借用すれば、皆さんはすでに大海原をそれぞれの船で航海中なのです。いま致命的ともなりかねない船の不具合を発見したのですが、これから港のドックに戻って修理している時間はありません。それに、出発した港がどこにあるか、もう遠くてわからないのです。むしろ目標を目指して公開を続けながら、海上にて皆さんの大事な船を修理していこうではありませんか。本書はまさにそのために役立ってもらいたいと思っています。
(以上引用終わり)

一段落まるまる引用してしまったのだけど、なかほどの「それに、出発した港がどこにあるか、もう遠くてわからないのです。」という一文に、じわじわと来るものがあるのですね。おっしゃるとおり、もう遠くてわからない上に、わかったとしても引き返せないのですよ。自分がトシだからそう思うのかもしれないのだけど。

ともかく一読をおすすめしたい一冊。






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第115回深夜句会(12/21) [俳句]

年内あと10日というところで、ことし最後の深夜句会、気がつけばもう115回目。

(選句用紙から)

電飾の青の巻きつく冬木かな

季題「冬木」。ここでは葉が落ちた裸の木に、青色のLEDが多数巻きつけられた風景であろう。電球色とか白色でなく、寒さを強調する青い色の電飾を施し、寒々とした風情で立っているのだけど、生命感覚と縁遠い青の電飾が、あたかも蔦のように自律的に「巻きつく」という表現がこの句の生命。

鳥のこゑ点々とあり日向ぼこ

季題「日向ぼこり」で冬。鳥の姿が点々とあるのなら凡庸な一句だろうが、鳥の声が点々とある、というのだ。そうすると、目をつぶっていたとしても遠近上下左右のあちこちから声が聞こえる、ということから、ある程度広い庭とか公園のような場所であって、小さな庭に面したガラス戸の中とかではないことがわかる。そうした鳥の声に耳を傾けるぐらいの精神的余裕のある日向ぼこりである、ということも楽しめる句(切羽つまった日向ぼっこってあるのか、というツッコミは禁止する)。


(句帳から)

一区画を四つに割つて枯芙蓉
咳の子に小さな声で話しかけ

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川北稔『砂糖の世界史』(岩波ジュニア新書、1996) [本と雑誌]

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ウォーラーステインの「世界システム論」の読者なら、とりたてて大きな発見があるわけではないのだけど、私たちの生活に深くかかわる砂糖が、どのように世界商品に成長していったかという過程がとても面白い。それは同時に、近代のイギリスの経済史そのものということもできる。

指摘されている現象自体には同意だが、理由について疑問な点がひとつ。
同様の世界商品に成長したタバコのプランテーションと砂糖のプランテーションを比較して、タバコ農場主は現地に定住して現地の社会資本を幾分なりとも整備した(だから本土では社会資本が発達した)のに対して、砂糖農場主はイギリスに住まっていて、現地には全く無関心だった(だからカリブ海諸国では社会資本が発達しなかった)という説明になっていて、その理由を気候の差に求めているのだけれど、それだけなのかという疑問は残る。ここのところ、ちょっと話が単純すぎないか。

 
 

第114回深夜句会(11/16) [俳句]

(選句用紙から)

自転車のわづかに残り虫の声

季題「虫の声」で秋。「わづかに残り」がいいですね。場所についてとやかく説明しなくても、駅や学校、工場などの「大きな自転車置場」であることは明らか。朝や昼間はたくさんの人が自転車をとめるので、虫の声なんか聞こえる余地がないのだけど、夜になって大半の利用者が帰ってしまい、自転車がまばらになると、敷地の中か外のどこかから、虫の声が聞こえてくる。


スナックの客の熊手の忘れ物

季題「熊手」で冬。ここでいう熊手は、落葉掃きにつかう実務的な熊手ではなくて、酉の市でもとめてきた縁起物の熊手であろう。詠み手はスナックの客。居合わせたほかの客が帰ってしまったあとをふと見ると、その客がさっき酉の市で買ってきて、お姉さんに自慢気に話していたその熊手が、忘れ物としてぽつんと残っている。
この句を楽しもうとすると、現在(2017年)における「スナック」という商売の世間的位置(大げさだが)を理解しないといけない。あまり思ったとおりのことを書くと、現にこの商売をされている方のご迷惑になってしまうのだけど、少なくとも、勤め人がこぞって足を運び、かわりばんこにマイクを握りしめ、棚にはオールドのボトルがずらっと並んでいるなどという風景は過去のものになりつつあるように思われ、そうした中でスナックに(少なくとも時々は)通っている詠み手と、顔はときどき見かけるけれども名前は知らないその客と、そのいずれもが、少々時代から取り残された存在であるところが、この句に味わいを与えている。

(句帳から)

アーケードの欠けたるところ冬の月
我慢して一層ひどく咳きこんで
荷物用エレベーターの聖樹かな

 
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