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村上春樹「ヤクルト・スワローズ詩集」(「文學界」2019年8月号) [本と雑誌]

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大久保孝治さんのブログ「フィールドノート」7月15日分を読んで、村上春樹がかつて同名の私家版を頒布していたものと勘違いし、「日本の古本屋」などで検索してしまった。そうではないのですね。勘違いに気づいて本屋に走り、まだ積んであった「文學界」8月号を入手する。

で、この小説(「ヤクルト・スワローズ詩集」というタイトルの小説です)なのだけど、あくまで小説の体裁をとりつつも、文藝春秋6月号「猫を棄てる」に続き、父親との確執に触れた部分がある。この部分は、もはや小説というより別の何かではないかと思わせるほどだ。

昨年7月11日の日経新聞夕刊に池田克彦さんが書かれていた「村上先生の思い出」と題するコラムで、甲陽学院の教師だった父親がどこかの予備校で、自分は入学の周旋等をしないことを説明し、「私には全く力はありません。現に、私の息子はこの学校の入試に落ちています。こんな私のところに挨拶に来られても何の意味もない」と言ったとあるので、これは随分ひどい話(そういう発言をする父親も、それを書いてしまう池田氏も、それを載せてしまう日経新聞も)だなあと思ったものだが、それから1年経って、これまで決して(記憶の限りでは)このことについて言及しなかった村上さんが立て続けに、父親との関係をとりあげた作品を発表したことに驚く。これは、村上さん自身が「自分の持ち時間」を意識されていることの現れなのかもしれず、すこし心配になる。

なお、もう1編の「ウィズ・ザ・ビートルズ With the Beatles」も、村上さんらしい、胸がしめつけられるような、苦い余韻がのこる小説だった。こちらは小説らしい小説で、かつ、どこから読んでも村上さんの作品とわかる何かが充満している。
 
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番町句会(7/12) [俳句]

(選句用紙から)

静かなる雨の窓辺の金魚草

季題「金魚草」で春。「静かなる」がどこにかかっているのかよくわからないのだけど、あえて全体にかかっているように読ませるねらいだとすれば、おおむね成功しているように思う。春の静かな雨、窓の外で濡れながら揺れている金魚草(この場合、金魚草の色が黄色やピンクといった、明るく華やかな色であることが一句に効果をもたらしている)、これらが総じて「静か」だという読み方。異論はあると思うが。


灯台へ近づいていく日傘かな

季題「日傘」で夏。映画のワンシーンのようだが、日傘の白、灯台の白、夏空の青といった要素と、灯台へ「近づいていく」というところ。観光地の有名な灯台でも悪くはないのだけど、人里離れた灯台に、近くの官舎に住む灯台守の家族がお弁当を運んでいるなどという(友人の灯台が稀な存在となった今では歴史的な)風景だと、日傘がたった一人で歩いている様子が際立つので美しい。

(句帳から)

夜濯や廊下の長い社員寮
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二冊の『自省録』(神谷美恵子訳,岩波文庫,1947/鈴木照男訳,講談社学術文庫,2006) [本と雑誌]

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Eテレ「100分de名著」4月のテキストは、マルクス・アウレリウス『自省録』!
『自省録」は、わがオールタイムベスト10に入る本なので、この地味な哲学書を「100分de名著」が取り上げてくださったことに感謝。

テキストを読むと、この本の成り立ちについて、今まで知らなかったことも含めて解説されていて、ほうほうと納得。しかし、公開を前提としていなかった個人的手記に写本があって、それが16世紀になってから印刷(活版?木版?)された経緯が今一つよくわからない(16世紀までに、写本の所蔵先で広く使われていたとか、写本の写本がたくさん出回っていたということだろうか)。この点は、岩波文庫版でも明らかにされていない。
また、講師の専門からしてしょうがないのだろうけど、「自省録」のいろいろな部分について、アドラーも同様のことを言っていると紹介するのはどうなのだろう。事実そうなのだろうけど、自省録ファンの多くは、洵に申し訳ないが、アドラーの話を聞きたいわけではないのです。それに、後世の人が同様のことを言っているというなら、徒然草だって「自省録」と同様のことを言っているわけで。たとえば59段や85段などは、「兼好法師は『自省録』を読んでいたのかな?」と思ってしまうほどだ。

それはともかく、ここへきて「自省録」が本屋で平積みになっているのを見ると、少しでも多くの人がこの本を手に取ってくれたらと願わずにいられない。手元にある1冊目の『自省録』(写真左側)は、言わずと知れた岩波文庫版(神谷美恵子訳)であるが、これを本屋で入手してから、今月でちょうど40年になる(こう書くと、年齢が40歳以上であることがバレてしまうが、致し方ない)。この本を読む前と読んだ後で、自分の人生はすっかり変わってしまった(変わったわけではなく、もともとそういうメンタリティの持ち主だったから、この本に共感したとも考えられるが)。世界史の先生がタイトルを教えてくださった授業の様子とか、初めて手に取った本屋の棚とか、開いて読み始めた駅のホームとか、この本にまつわるさまざまな風景を、いまも鮮明に覚えている。また、就職して実家を出たとき荷物に加えた数少ない本の一冊でもある。

で、いい本だと言っておきながら、新訳が出ていることを知らなかったのも情けないのだけど、この機会に新訳(写真右側)も購入して、改めて両方に目を通してみる(本屋さん、なかなか商売上手です)。ひととおり最後まで読んでみたのだが、これは旧訳のほうが読みやすいといわざるを得ないのではないかなあ。例として、3章10節の冒頭と4章45節を挙げるとこんな感じ。以下引用。

(旧訳)
ほかのものは全部投げ捨ててただこれら少数のことを守れ。それと同時に記憶せよ、各人はただ現在、この一瞬間にすぎない現在のみを生きるのだということを。その他はすでに生きられてしまったか、もしくはまだ未知のものに属する。
(新訳)
されば、すべてを放下しただそれら僅かなことのみを堅持せよ。そしてなお合わせて銘記せよ――各人はただ束の間のこの現在のみを生きているのである。それ以外はすでに生き終えてしまったこと、ないしは、いまだ明らかならぬ不確定のことである。

(旧訳)
後に続いて来るものは前に来たものとつねに密接な関係を持っている。なぜならばこれは単にものを別々に取り上げて数えあげ、それがただ不可避的な順序を持っているにすぎないというような場合とは異り、そこには合理的な連絡があるのである。そしてあたかもすべての存在が調和をもって組み合わされているように、すべて生起する事柄は単なる継続ではなく或る驚くべき親和性を現わしているのである。
(新訳)
後続するものは先行するものに緊密に結びついて継起するのである。なぜなら、それはばらばらに分離したものの一種の枚挙、それも専ら外からがっちり強制された性格の枚挙といったものではなく、十分な根拠づけをもつ連結である。そして存在する諸物が一大調和をなしつつ配置されているごとく、生起するものもまた単なる継承でなく賛嘆すべきある種の近親性を顕示しているのである。

以上引用終わり。ことによると、新訳のほうが原語に忠実なのかもしれない(ギリシャ語を全く解さない自分には、それを検証することができない)が、少なくとも、読み物としては旧訳に軍配をあげざるを得ないと思う。

長いあいだ勘違いしていたことがひとつ。神谷美恵子さんは、英語訳から重訳したものとばかり思っていたのだけど、原典(古典ギリシャ語)から訳されていたのですね。神谷美恵子ファンとして、この勘違いはかなり恥ずかしいのだけど、戦中戦後のあの混乱のなかで、もっといえば、食べていくことや生きていくこと自体が大変だった時代にあって、これは途方もない偉業ではないですか。改めて尊敬する。

ところで、この本に全然関係ないことだけど、本のなかほどに、馬券のコピーがはさんであった。馬の名前が「アタラクシア」というのでこの本にはさんだのかもしれないが、全然記憶がない。「2000年5月28日、第67回日本ダービー」と書かれている。この馬のオーナーは、どういうつもりでこの名前をつけたのだろう。

 

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第134回深夜句会(7/11) [俳句]

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いつもお世話になっている「マメヒコ」で、チリコンカンのホットサンドをいただく。おいしい(あまりおいしそうに写っていないが…)。
外は雨。気温が低いので、真夏の句がうまく詠めない。

(選句用紙から)

ファーブルがかぶったやうな夏帽子

季題「夏帽子」。ファーブルがいつごろの人物なのか、実はよく知らないのだけど、歴史上の人物の姿って、限られた絵や写真でしか知ることができないので、「芥川龍之介といえばこんな格好」とか「ベートーヴェンといえばこんな格好」のように、顔や装束が固定されてしまうのですね。
で、ファーブルの写真というと、たしか丸くて黒っぽい帽子をかぶっていた姿を国語の教科書で見たような気がする。いま試みにgoogleで検索してみると、実際その通りなのだけど、ただこれは夏帽子なのか、一年中この帽子なのか定かではないけれども。
この句の面白いところは、野外で昆虫を観察することに生涯をささげたファーブルだから「夏帽子」が活きてくるということ。これが例えば「シューマンが」とか「ラッセルが」みたいなインドア系の人だったら、たとえ夏帽子をかぶった写真があっても、俳句として面白くないわけだ。

梅雨寒の第一団地前通過

季題「梅雨寒」。通過するのはバスで、詠み手はそのバスに乗っている。第一団地というからには第二団地もあるのだろうが、かつてはたくさんの働き手や学生やこどもが住んでいる(いた)はずの第一団地なのに、今では乗り降りする人さえおらず、バスも通過してしまう。雨の中、うっすらと寒いこの風景は、大げさにいえば、高齢化が進んだ「いまどきの日本の団地」なのだろう。そのように説明するのでなく、眼前の事実をもってそれを表した一句。なお、一軒家が立ち並んでいる造成地を「団地」と呼ぶこともあるが、ここでは集合住宅が何棟も並んでいる風景を思い浮かべた。


(句帳から)

梅雨寒や湯沸室の立ち話
水草の花のあひだの幼魚かな
会議室の西日しだいに耐へがたく


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藤岡陽子『陽だまりのひと』(祥伝社文庫、2019) [本と雑誌]

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『ホイッスル』(光文社文庫、2016)に登場する小さな法律事務所が、本作の舞台になっている。法律家の仕事をとりあげた小説はたくさんあるが、「説明」なしでわかる範囲には限界があるし、説明を始めると小説がつまらなくなってしまうし、書くのが難しいジャンルだと思う。でもこの作品は、じゃまにならない程度に理解することができ、楽しむことができる。
波乱万丈・驚天動地の物語とか、ストーリーが入り組んだミステリとかを望む読者にとっては、盛り上がりやオチに欠けるように思えるかもしれないが、むしろこのあっさり感が、何もかも詰め込みすぎの小説にへきえきした後では、すがすがしく感じる。続編希望。

 

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第133回深夜句会(6/13) [俳句]

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(選句用紙から)

別に好きでもない映画明け易し

季題「明易し」で夏。深夜のテレビで放送されている、まあどうでもいいような映画を、見るでもなく消すでもなくぼんやりしていると、やがて外が明るくなってきた。
一読して、どうして「明易や別に好きでもない映画」としなかったのかと思った(そのほうがリズムもいいし、句意は変わらない)。しかし、これはもしかすると、あえて「別に」を句の頭に出したかったということではないだろうか。つまり、ツンデレ表現で「べ、べつにこんな映画好きでも何でもないんだからね!」と言わせたかった=本心は、昔見たその映画に、忘れがたい思い出があるのだ、という句ではないかと。その場合、句意はまったく逆になってくる。
しかし、そういう読み方って、世間で流行りのものの言い方を読み手が共有していることが前提になるので、もう10年早ければこの解釈は成り立たないし、もう10年遅いと、注釈(むかしツンデレ表現というものがあって…という注釈)が必要になってしまう。そういう意味では、俳句も散文と同様、時代の産物だ。

梅雨に入るいつもの駅にいつもの人

季題「梅雨」。「いつもの駅にいつもの人」がいい。これが「いつもの人が駅にいて」だと、街中でよく見かける人を、きょうは駅で見かけた、という意味になってしまう(ストーカー?)。
他の季題、例えば「若葉風」とか「秋日和」でもいける(つまり、季題が動く)ような気がするのだけど、この句はこの句で、梅雨時の、鬱陶しいのだけれど、それでいて寒く寂しい心持をすくいとって詠ったものとして納得できる。毎日雨が降るのだけど、通学か通勤かでいつもの駅のいつもの場所に並んで電車を待つ。面倒というか厭わしく感じるのだけど、ふと、いつも見かける人も同じ電車を待っているのが目に入る。あぁ、この人も、きょうも同じように電車を待っているのだ、という心持。

風鈴に機械の風の来ては去る

季題「風鈴」で夏。「機械の風」がいい。エアコンとか扇風機とか言わずに(それだと季重ねになるからでもあろうけど)、あえて、つるっとしてとりつくしまのない「機械の風」としたことで、本来の趣旨というか用法から切り離された状況でちりんちりんと鳴っている風鈴の困惑?ぶりがよくわかる。
「機械の風」って、口語でも言えそうで言えない表現だし、まして俳句にズドンと持ってくるのは、なかなか思いつかないところ。

(句帳から)

明易やいまみた夢をもう忘れ
十薬の広がつてをる線路際
駅前の生産緑地栗の花



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津原泰水『ヒッキーヒッキーシェイク』(ハヤカワ文庫、2019) [本と雑誌]

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話がどんどん飛んでいく。省略されている部分が多く、想像で補って読むので、映画を見ているような感じ。ついていくのが大変だが、登場人物の描き方に作者の愛情が感じられて(それぞれの居場所を用意しているところや、必要以上に持ち上げたり落としたりしないところなど。そういう場面では、不意にゆっくりになる)、この人最後はどうなるのだろう?という興味で最後まで読ませる。

 
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2019・第9回ぐんま100参加の記録③感想・分析編 [ウォーキング]

②当日編から続く)

スタッフのみなさんの意気込みや心遣いが伝わってくる、とても気持のよい大会だった。主要な地点が市役所であることや、出場者に占める群馬県在住者の比率の高さなど、地元密着の度合が高い大会であることのよい面が出ているのだと思う。「ぐんま100kmウォーク」という看板の大きさ(他の大会は市町村名とか地域名であるところ、県の名前が大会名になっていることを言っている)も、納得がいく。

いつも思うことだが、100キロウォークの主役は2つ(2グループ)ある。
ひとつは、
「制限時間内に完歩できるか不安に思いながら挑戦している出場者(この大会でいえば、26時間台とか27時間台でゴールした出場者)」
もうひとつは
「実行委員会やボランティアをはじめとする運営スタッフのみなさん」
だ。両者に共通するのは、計算が入り込む余地のない(少ない)、より純粋な挑戦という点だ。自分のように、完歩できることは前提としつつ「どうすれば20時間を切れるか?」などと考えるのは、楽しいけれどもきわめて個人的な目標なので、なるべくスタッフのご迷惑にならないよう静かに参加し、エイドやチェックポイントでは十二分に謝意を表現するのがお約束というものだろう。

特に、エイドやチェックポイントのみなさんの励ましや、整体やマッサージの充実ぶりは、どちらもとても助かった。わけても、第2CPで足のマッサージをしていただいた先生には感謝してもしきれない。お名前を聞き忘れたのが悔やまれるが、あのマッサージのおかげで、第5エイド(90.2k)近くまで、1キロ11分台で歩くことができました。ありがとうございました。

にもかかわらず、最後の10キロで、やはり失速してしまった。失速といっても12分台か13分台なので、昨年のびわ100の失速ぶりにくらべればだいぶ改善されたのだけど、最後の10キロを11分台で歩くことができれば(つまり、最初から最後まで概ね11分台で歩ききることができれば)、あとは「12分未満で歩いた時間の累積」と「休憩時間」のどちらが長いかで19時間台か20時間台かが決まるというシンプルな構図になってくる。だが、最後の10キロで失速しないためのトレーニングって、どのようなものだろうか。これが第1の課題。

第2の課題は、昼間の暑さ&明け方の寒さ対策。いつもこんなに暑いわけではないのだろうが、5月11日の最高気温は前橋28.6度、伊勢崎29.4度、桐生29.5度、12日の最低気温は前橋13.5度、伊勢崎12.8度、桐生12.8度で、かなり日較差が大きい。着替えや着重ねはむろんのことだが、前後半でもっと明確に差をつけた方がいいかもしれない。極論すれば、前半はTシャツ1枚、後半はダウンジャケットとか。

第3の課題は、水と栄養の補給。前半は概ね計画どおりだったのだけど、後半になってほとんどのものを受け付けなくなってしまったので、秋のびわ100までに考え直さないといけない。最後まで摂取可能なものって、何なのだろう。

上記3つのいずれにも関連する第4の課題は、途中から頭が働かなくなってしまうことで、今回も、着替えや補給を忘れたり、トイレに行きかけて戻ってきたり、お店の人の問いかけに反応できなかったりと散々だった。眠気と疲労の相乗効果なので対策をとることは難しく、カフェインを摂取すれば一定の効果はありそうだが、心肺系への負担が心配。

課題というより懸念としては、当日編にも書いたとおり「歩道のない幹線道路を夜間に歩くこと」だろうか。これは安全の「度合」に関する懸念であること、またニューイヤー駅伝のコースを歩くことが謳い文句であることから、簡単に解決できないことは承知しているが、歩道のない区間だけ、並行する生活道路に迂回することは難しいだろうか。とはいえ、安全は自分の責任で確保しなければならないので、個人的には来年以降、本降りの雨だったら出走しない選択もありだと思っている。

冒頭にもどって、もう一つこの大会のいいところは、「適正な規模」を意識されているところだと思う。ちょっと考えると、参加者が多いほど大会が盛り上がりそうに思いがちだが、おそらく、エイドやチェックポイントのキャパを考えて、あえて適正規模にとどめておられるのだと思われ、これは素晴らしいことだと思う。

さらに一点、途中第2CPで荷物の出し入れができるところも、この大会のすばらしいところで、これができないと、上記「前後半での着替え」などは絵に描いた餅になっていまうので、ぜひ存続してほしいところ。

いずれにせよ、来年もエントリーして前橋へ行くのが今から楽しみ。大会スタッフのみなさま、本当にありがとうございました。

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2019・第9回ぐんま100参加の記録②当日編 [ウォーキング]

(①準備編から続く。備忘録を兼ねているので、いつにも増して冗長な点はご勘弁を)

朝からいい天気。やはり暑くなるのか。
天気予報が「夕方はところにより雷雨」と言っているのがいやな感じ。歩行者は、雷雨でも雪でも避けようがないので。

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8:00 前橋市役所前、スタッフのみなさんとぐんまちゃんに出迎えられて受付。風が強くて寒い。安全ピンを使ってゼッケンをTシャツに止めるのが毎度面倒だが、他にいい方法はないものか。

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8:30 開会式。市役所前の広場は出場者でいっぱい。何人いるのだろう。どなたかのご挨拶で「100キロウォークの折返点は50キロではなく、80キロである」とおっしゃっていて、本当にその通りだとうなずく。最初の80キロを歩く大変さと、残り20キロを歩く大変さがほぼ同じだということ。

9:01 かわいいゲートをくぐってスタート。0.5km地点で歩道橋を渡ることもあって、スタート後しばらくは、先導役に従ってゆっくり歩かなければならない。この時点で既に暑く、道中の大変さを予感させる。
前橋から高崎への大きな幹線道路を歩く。事前に想定されていた通り、信号で立ち止まるのが(より正確にいえば、信号を渡る直前で赤に変わってしまって立ち止まるのが)フラストレーションになる。かといって、赤に変わる直前に間に合うように予測しながら歩くのはけっこう難しい。信号待ちのあいだに、PETボトルの柿ピーをかじるのだが、ボトルから柿とピーが均等に出てこない(柿だけ先に出てきてしまう)ことが判明。事前の実験でわかったいたので、口の広いPETボトルを用意したのだけど、それでもうまくいかなかった。

11:09 高崎市役所のエイドポイントでスポーツドリンクをいただいて一気飲み。案の定、腹痛がやってくる。しまったと思ったがもう遅い。

12:28 第1エイド(19.5k)。塩むすびと梅干が美味。だいぶ汗をかいているので、きょうは水分補給も難しくなりそう。気温は30度近くまで上がっているが、湿度がとても低いので、日陰に入りさえすれば涼しい。

13:25 東善町の交差点を南へ。北から南へ向かう歩道には、日陰が全くない。これはつらい。途中の大きな豆腐屋さんが「豆乳ソフトクリーム」みたいなものを商っておられて、心惹かれるものがあるが、自重しておく。古い瓦葺の民家(農家)で、瓦屋根の上にもう一つ小さな瓦屋根が載っているというか、ロフトのようなものが設けられているのは、養蚕が盛んだった時代の名残りであろうか。

15:04 第1チェックポイント(伊勢崎市役所:34.1k)。バナナをいただく。汗を拭って額を冷やせるおしぼりのサービスがとてもありがたい。

15:32 応援団が待機する沿道のカフェに入る。不思議なことに、エアコンの効いた室内に入ったとたんに汗がどっと噴き出る。温かくおいしい紅茶をいただいて、再び出発。いちめんの麦畑の中を歩くのは気持がいい。その麦畑の中を、2両か3両の東武電車が走っていく。この景色は、北関東らしさを満喫できるすばらしいもので、県外からの参加者を募るには、ここでポスター写真を撮れば…などと考える。

16:29 幹線道路を外れ、古い街道に入る。進行方向左側は歩道がなく、右側にはわずかな歩道があるが、この歩道は昔風に、車の出入口が各戸ごとに削ってあるので、細かい凹凸につきあわなければならない。また、首の後ろから西日を受けて歩くのはなかなかにつらい。

18:49 第2エイド(49.3k)。コンビニの駐車場にキッチンカーが停まっていて、楽しみにしていたミニカレーの配給を受ける。食欲が維持できるかな?と危惧していたが、おいしいカレーで、すんなりと食べることができる。クリームパンもいただいて、早々に出発。

19:40 コース上に1か所だけあるスターバックスの前を通過。立ち寄って甘いものを買おうか買うまいかとギリギリまで迷ったが、第2チェックポイントが近いので、効率が悪いと考えて通過する。

19:53 第2チェックポイント(太田市役所:56.5k)。稲荷ずしをいただく、あとで果物もいただこうと考えたが、結局忘れてしまった。マッサージが数分待ちで受けられそうなので、少し考えてから申し込む。これは大正解で、ガチガチに固まっていた足の各所をほぐし、新品同様?に戻してくださった。値千金とはことのことで、本当にありがたい。

後半用のシャツやベスト(保温性重視)に着替える。脱いだシャツは汗びっしょりで、想像以上に水分が失われていた模様。行動食も全部入れ替える。後から考えると、このころから判断力が低下していたようで、後半用にわざわざ持ってきたジェルの包みを開けることすら忘れてしまった(しかも、ゴールするまでそのことに気づかなかった)。結局、54分間滞在して20時47分に出発。

21:12 太田と桐生を結ぶ地方道を北上するのだが、歩道のない箇所がところどころに現れる。これはたいへん怖い。もともとこの「ぐんま100」のコースは、ニューイヤー駅伝と同じコースであることが看板になっていて、地元群馬県の皆さまにとっては重要なポイントなのだろうけど、大型トラックが体のすぐ横を次々に通過していくとなると、心安らかではない。念のため反射材のタスキを掛けているが、まぁ気休め。

22:00 第3エイド(63.2k)。草津湯の花まんじゅうをいただく。ずっと食べ続けてきたドライフルーツや柿ピーがしだいに食べられなくなってきていたので、これはありがたい。

前後を歩く人はまばら。太田市と桐生市の境界の手前だっただろうか、とある一軒家の前で、こどもをだっこしたお父さん、お母さんから「がんばって!」と応援を受ける。遅い時間に真っ暗な中を一人でとぼとぼ歩いているとき、これは大変ありがたく、また心強い。よく晴れて星がきれいな分だけ、気温がどんどん下がっていくのを感じる。半月が西の空低くかかっている。きょうの月齢は6.2。100キロウォーク当日が満月で、かつ、夜中に高い角度で南中してくれると理想なのだけど(←これは参加申込時にまず調べることのひとつで、藪柑子には大きな関心事)。

22:44 深夜の渡良瀬川を右岸から左岸に渡る。桐生市街地のはずれなので、川面や河原の様子はよくわからないが、橋の長さや高さから、大きな川であることはわかる。むろん、渡良瀬川を歩いてこえるのは初めて。

23:48 第3チェックポイント(桐生市役所:72.3k)。スタッフのみなさんの歓迎で元気づけられる。豚汁の補給をいただくべきところだが、寒いさなかにおなかを壊してはいけないと考えて自重。トイレに行こうとして市庁舎の奥まで歩いていって、直前で翻意して戻ってくる。私は何をやっているのか?自分ながら不可解な行動をとっている。

00:25 疲労と眠気で食欲がなく、持参した行動食をこれ以上食べられないので、76.6k地点のローソンに入って温かいお茶とゼリー2つを購入。その場でinゼリー(エネルギーストロング)を飲むが、栄養ドリンク味ってどうしてこんなにまずいのだろう。エネルギーレモンにすればよかった(どうでもいい話)。朝バナナは、歩きながらちびちび吸い込む。

00:55 国道50号線に入る。あとはこの道路を、ひたすら西に向けて歩いていくだけ。とはいえ、ゴールまで23.5キロもある。また、さきほどの太田桐生間の地方道にも増して大型トラックやトレーラーがすごいスピードで走っている。トレーラーがホッパー?のようなものを2台牽引しているやつが特に怖い。この国道もところどころに歩道や街灯のない箇所があり、眠気と恐怖心が拮抗して変な感じ。また、ものすごく立派な、まるでリゾートホテルのようなラブホテルがあって、へええと感心してしまう。昼間見ればハリボテなのかもしれないが。

01:48 第4エイド(80.4k)。エイドはローソンの駐車場に開設されているので、先に店舗に立ち寄り、焼きおにぎりと温かいお茶を購入。もうこれしか食べられない。食欲はないが、あと20キロもあるので、少しでも食べ続けないとガス欠になってしまう。
このあたりから、道路の途中に冷気が充満した場所(数百メートルだけ特別に寒い区間)がいくつかあって、どうして一様に寒くならないのかわからないが、歩くながらぞくぞくする。

03:53 第5エイド(90.2k)。あと10キロ。第4エイドと同じように、コンビニに入って塩むすびをもとめる。お店の人が「温めますか?」と尋ねてくださるのだけど、何を尋ねられているのかわからず、一瞬ぽかんと考えこんでしまう。目をあけたまま眠っているというか、もう廃人同様の状態。エイドでいただいたわかめスープと併せていただくと、すばらしくおいしい。エイドにはバナナもあるのだけど、食指が動かない。スタッフのみなさんに励まされて出発。
この第5エイドを過ぎたところで、空が明るくなってくる。大型車が多い道路だけに、明るくなることは、安心できてありがたい。

05:06 野中町交差点。あと5キロ。しかし足が前に出ない。第5エイド以降、1キロあたり12分(時速5キロ)を維持できていないので、午前6時前にゴールするのは難しそう…というか、そういう計算も既にできなくなっている。

06:00 前橋市街地に戻り、最後の歩道橋を渡って(意外なことに、歩道橋は全行程で3回、地下道は1回しかない。)、前橋市役所の方角へ進む。はたから見ればかなり滑稽な姿になっていることだろう。最後の2つの信号は短い間隔で連続し、かつ2つ目の信号の赤が長いことをおととい経験していたので、2つ続けて渡りきるべく全力で歩く。そんな力が残っていたことに自分でも驚く。それでも午前6時をだいぶ過ぎて、ようやくゴール。ゲートは「START」から「FINISH」に換装されていて、さらに、1人ずつテープを張って迎えてくださるのですね。ゴール地点のスタッフの皆さんは、昨晩からずっと配置についていると思われ、有難いやら申し訳ないやら。
疲れたというより、今はとにかく眠い。食欲は皆無。

07:00 ご厚意で午前7時に開店してくださった市役所横のお店で温かいうどん。まだ眠いが、ようやく人間の世界に帰ってきたような気がする。

歩数は、11日が100,697歩、12日が46,218歩。ただし両日とも、スタート前後の歩数を含んでいる。

(③感想・分析編に続く)





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2019・第9回ぐんま100参加の記録①準備編 [ウォーキング]

1月 毎年秋に開催されるびわ100とは逆の季節、つまり春に開催される100キロウォークを探してみて、関東地方で開かれるしおや(栃木県)・ぐんま(群馬県)・つくば(茨城県)の3つの大会に興味を覚えた。競技ではないことを明言している点やスケジュール上の都合から、ぐんま100キロウォークに参加してみようと考える。

(↓ぐんま100のロゴマーク。大会HPによれば(少し長いが、以下引用)、「群馬県の県花であるレンゲツツジの花びらモチーフにし、人々が手を取り合って輪を広げていく意味を込めています。レンゲツツジの花言葉は「あふれる向上心。情熱」まさに大会趣旨を象徴するかのような、ピッタリの花言葉です。そして3つあるという3の数字が意味すること •参加者、運営ボランティア、地域それぞれが支えあうこと •お父さんとお母さん、そして子どもたちが協力し合うこと •子どもから大人、そして高齢者まで全ての世代に挑戦の機会を さまざまな想いが、ぐるっと一回りしてそれぞれが関連しあう、そういう輪と和を象徴しています。」(以上引用終わり)ということで、こういう理念を掲げて参加者を募ることは、とても共感できる。

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2月1日(受付初日) 申し込もうとするが、サーバが混雑していてなかなかつながらない。夜遅くになって、ようやく必要事項を入力する。
参加費払込を終えて、数日後に郵便で届いた書類を開けてみると、けっこう後のほうの番号になっている。その後も参加申し込みが殺到した模様で、2月11日正午には満員札止めとなる。期間中に定員に達して募集打ち切りになるのは、この大会では初めてのことらしい。適正な規模にとどめ、いたずらに拡大しないことは、とてもよいことだと思う(申し込む方は大変なのだけど)。

また、参加費とあわせてお納めした若干の寄付に対してたいへん丁寧なお礼状をいただき、かえって恐縮してしまう。大会充実のためにお役立ていただければ、それで十分なのだけど。

初めて歩くコースなので、ウェブサイトに載っていた前回大会のマップを読み込んで学習する。幹線道路をずっと歩くのは、①ロードサイド店などの殺風景な景色 ②信号待ちが歩くリズムのさまたげになる(次の信号が点滅しないか気になって仕方がない) ③雨の日に大型車両の水しぶきをかぶる といった理由であまり気がすすまないが、「ニューイヤー駅伝のコースを歩く」ことがこの大会のコンセプトなので、いたしかたない。

次に、歩行中の栄養補給について考える。
余分な荷物は少しでも減らしたいし、ほぼ全行程幹線道路沿いを歩くから、コンビニやファストフードはたくさんある。なので、なるべく飲料水や行動食を持たず、沿道で補給することにしたい。
それで、100km歩くのにどのくらいの栄養を補給すればいいのか、考えてみる。

まず (1) 基礎代謝。これは年齢性別身長体重から、およそ1,300kcalと推定。
次に (2) 歩くことによる消費カロリーの計算。
この計算は、歩くスピードによって値が異なってくるのだけど、とりあえず体重と歩行時間(22時間)を固定して計算すると、
分速67m(時速4.0km)→ 3,534kcal(歩行距離88km)
分速80m(時速4.8km)→ 4,123kcal(歩行距離105.6km)
と推定される。
(以上(1)(2)ともカシオ計算機ウェブサイト「ke!san」による)

上記(1)(2)の合計は、4,800~5,500kcalとなるのだけど、これだけの栄養をどうやって摂取すればいいのだろうか。スタート前の朝食で1,000kcalをとり、エイドでいただくパンやおにぎりで1,000kcalをとったとしても、残りの2,800~3,500Kcalは、持参するか、コンビニで買うか、外食の店に入って食べる必要がある。

では、コンビニで調達可能な食事ってどんなものがあるのだろうか。コンビニをよく知っている人なら考えるまでもないだろうが、ふだん滅多にコンビニで買い物をしないので、この機会に店に行って、「歩きながら食べられる高カロリーのもの」を物色する。

まず、コンビニの代表格であるセブンイレブン。
一口サイズのお菓子だと、
 ・バウムクーヘン 280kcal
 ・チョコチップスコーン 383kcal
店頭の蒸し器に並んでいる中華まん
 ・肉まん 245kcal
 ・あんまん 286kcal
定番のおにぎり
 ・ツナマヨ 225kcal
 ・梅 166kcal
菓子パン
 ・メロンパン 405kcal
 ・チョコブレッド 336kcal
…と並べていくときりがないのだけど、1回につき300kcalとしても、4,500kcalのためには15回調達しなければならないことになる。これは面倒すぎる。

続いて、コース上に1店舗だけあるスターバックス。
 ・シナモンロール 477kcal
 ・アメリカンワッフル 241kcal
となっていて、さすが米国のコーヒーチェーンだけあって高カロリーなのだが、まあ限界がある。

では外食チェーンはどうか。タイムロスになることさえ我慢できれば、かなりの高カロリーが期待できる。例えば吉野家のウェブサイトでは
・牛丼並盛 652kcal
・牛カルビ丼並盛 839kcal 
となっている。しかし、3,500kcalを摂取するために、24時間に牛カルビ丼並盛を4回食べられるかというと、勘弁してほしいところ。

結局、どのような方法をとるにしても、一度にたくさん食べるのは無理なので、少しずつ食べ続けるしかない。問題は、終盤になると、その「食べ続ける」こと自体ができなくなってしまうことなのだけど。
結局、行動食を減らすという当初方針とは逆に、柿ピーとドライフルーツを大量に携行し、それが食べられなくなったら(その先は)コンビニで食べられそうなものを探すことにした。

5月2日 日本気象協会の10日間予報では、11・12の両日とも曇か雨となっている。特に12日は降水確率80%。雨用の靴やら何やらを運ぶのは大変なので、降るのか降らないのか、どちらかにしてほしいところ。大雨だったら出走取消も考えないと…

5月4日 一週間前なので、炭水化物を減らしてカーボローディングの真似ごと。

5月8日 両日とも曇で降水確率40%に。曇は一番ありがたい天気(日中気温が上がりにくく、夜間下がりにくいから)なので、天気が曇になるか雨になるかで天国と地獄なのだが…

5月9日 降水確率は11日0%、12日30%とほぼ雨の懸念が解消されたのはよかったが、11日の最高気温が28度の予想に…暑い中で幹線道路を歩くので、熱中症対策を考えないと。

5月10日 応援団(家族)とともに前橋へ移動。炭水化物を大量に摂取。明日は予報どおり、いい天気で暑くなりそう。なので、ハイドレーションには午後の紅茶(無糖)ではなく、グリーンダカラを入れることにする(気休め)。明日の打合せをして、早めに就寝。

(②当日編に続く)


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第132回深夜句会(5/23) [俳句]

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(選句用紙から)

カウボーイ風の藺帽子少し変

季題「藺草」で夏。藺草で編んだ帽子、それもカウボーイハットのような帽子をかぶった人がいるのだけど、何しろ藺草であるからして、編み目が表に現れたりしていて、なんだか妙ちくりんな感じ。その違和感を「少し変」と言い切ったところがこの句の眼目。こういう口語的な表現って、できそうでできない。

薫風や大道芸に百人余

季題「風薫る」で夏。大通りか広場かで大道芸が行われていて、そこに人だかりがしている。広い場所全体に薫風がふきわたっていく心地よい感じ。「百人余」か?「百余人」か?と質問してみたところ、「百余人だと百人とちょっと、つまり103人とか105人とかのニュアンスだけど、百人余だともう少し多い110人とか120人のニュアンス。だからこの句は百人余でよいはず」なるほど。

働けるいまが幸せ緑さす

季題「新緑」で夏。検討のしがいがある句というか、上五中七まで一気に言っている内容と、下五の季題がどう結びつくのか考えどころ。教科書的?には、新緑の生命感とかエネルギーにあふれた感じがそれと結びついているということになるのだろう。他方で、季題が動くのではないかという指摘もありそう。「鰯雲」とか「島の夏」とか「里の春」とか。
鈴木真砂女の「今生のいまが倖せ衣被」を連想させるという感想も。それを受けて「でも、あの句よりこちらのほうがいい」という意見も。私もそう思う。衣被の句は、まとまりすぎていて、俳句という形式の可能性について誤解を招くというか、そういうことを言うのが俳句だと思われてしまうのがいやだ。いや、もちろん、そういうことも言おうと思えば言えるのが俳句なのだけど、そのために俳句があるわけではないということ。

(句帳から)

順番に官舎壊され花茨
三条のスターバックス川床涼み
麦熟れてみつしり揃ふ色とかたち
オリーブのわづかな花芽わづかに黄


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番町句会(4/12) [俳句]

締切ギリギリに到着してみると、きょうのお題は「復活祭」。
さて困った。

(選句用紙から)

復活祭の御堂やいまも畳敷

明治時代に建てられた礼拝堂なのか、それとも江戸時代の「隠れキリシタン」のお堂なのだろうか。「いまも」お堂の中が畳敷きだという、その「いまも」のあたりに歴史や事情が感じられるところ。畳に正座して礼拝をとりおこなうことって、私は経験したことがないのだけど、どんな感じがするものだろうか。

船で来る復活祭の神父かな

長崎の離島の教会とかでしょうか。ここで「船」がどんな船かは描かれていないので、漁船に便乗して渡ってきていると読んでもよいし(面白い)、観光客や転勤者といっしょにフェリーでやってくると読んでもよい(これも面白い)のだけど、「神父が島にやってくる」というシチュエーション自体が、そこに根付いた信徒さんの文化(しかし神父が島の教会専従ではないことからして、それほど巨大な島ではなさそうな前提も)を想像させる。

シャンパンの瓶を重しに花筵

季題「花筵」で春。お花見の敷物が風で飛ばないように、そのへんの石を置いたり、缶ビールを置いたりするのだけど、シャンパンの瓶を置いたというのですね。理屈をいえば、シャンパンの瓶はガス圧に耐える分だけワインボトルより厚くて重いので、重しに向いているのだけど、そういうことをいちいち言わなくても、オッサンの花見でないことがうかがわれるわけで、おつまみも洒落たものだったりするのだろう。いいですね。

(句帳から)

街の灯を映して春の夜の雲
ママ友の送別会の花見かな
椿寿忌や左手頬にあてたまま
花冷や水銀灯の青光り
イースター・エッグ遺され書類棚

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おおうちそのよ「歩くはやさで旅したい」(旅行人、2018) [本と雑誌]

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これが「どのような旅の本なのか」と問われると、説明が難しい。
同じ場所に同じカメラを構えれば同じ写真が撮れるとは限らないのと同様、同じ風景を見ても、この作者の目には、このように映るのですね。俳句という文芸は、感じ取る力と言葉に置き換える力の両方が必要なわけだけど、このように感じ取る目を持っていること自体が、稀有な感じ。

本書は、旅の具体的な情報を求めて読む本でもなく、紀行文やエッセイとも違う。しいて言えば、旅とは何か、について、直接論じることなく示唆している本というべきだろうか。蔵前仁一さんの「ホテルアジアの眠れない夜」とか田中真知さんの「孤独な鳥はやさしく歌う」とはまた違った、旅することが人間にもたらす何かを考える上で重要な気づきが得られる名著。「旅行人」連載時に楽しみにしていたコーナーでもあり、腰巻きで蔵前さんが「どうしてもこの本を出したかった」と書いていることに深く共感する。



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第131回深夜句会(4/11) [俳句]

急に寒さがぶり返して、立春とはいわないまでも、春浅い2月中旬のような感じ。

(選句用紙から)

犬をらぬ犬小屋のあり花は葉に

季題「葉桜」で春。犬は散歩に出ているのか、もうこの家にいないのか。後者ととりたい。もう主のいない犬小屋は、それ自体が季節感をもたらすものではないけど、そこへ「葉桜」で、庭に植わっているのか街路樹なのかはわからないが、花から葉桜になって、庭が、つまり犬小屋の周囲が、少し「暗くなってきた」ことと、犬がもういないことが響きあっているように感じられる。春愁という季題にも通じる感じ。

納品を終えて仰げる桜かな

「納品を終えて」がいい。
「納品」であって「納入」じゃないので、形があって、かつ、そんなに大きくないものなのだろう。事務機器とか食料品とかを小さな会社に納品して、そこから外に出たところで、道路に桜が咲いている、というような風景。ものすごく大きなビルだと、納品は納品だけど、納品を終えて外に出るまで時間がかかるし、やっと外に出ても、ビルのほうがずっと大きいから、この句のような「仰ぐ」感じになかなかならない。
また、個人の住居だと、わざわざ「納品」と言うこと自体が大げさな気がする。


紺色の肩の花屑触れもせず

季題「花屑」で春。紺色の、は花屑にかかるはずがないので、肩にかかるとすると「紺色の肩」って何だとなるのだけど、ブレザーか、紺色のワークシャツなのだろう。で、その恰好で桜の下を通りすぎた人の、肩のあたりにふと花片が落ちて止まった。しかしその人は、その花片に気づいたのか気づいてないのか、それに触れもせず歩み去ってしまった。なんでもないことのようだが、そこに詩情があるのですね。
また、ここで「触れもせず」を、「隣で一緒にいた自分」のこととして鑑賞すると、一句の感じはぐっとロマンティックなものになる。

(句帳から)

花筏善福寺川蛇行して

 
  
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スコット・ジュレク『NORTH 北へーアパラチアン・トレイルを踏破して見つけた僕の道』(栗木さつき訳、NHK出版、2018) [本と雑誌]

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アパラチアン・トレイル(AT)を南から北へ走って、最速(最短時間)踏破記録をめざす話、と要約してしまうと身も蓋もないのだけど。
時間との戦い。自分との戦い。サポートする配偶者の視点と本人の視点が交互に語られることで、ものの受け止め方の違いみたいなものを描き出すことに成功している。

また、ストーリー的にも面白い。気楽にスタートしたものの、すぐにケガをしてしまってそこからのリカバリーに苦労するとか、著名なランナーなのでしだいにファンが増えてきて、楽しかったり鬱陶しかったりするとか、アンチが湧いてくるとか。最後は専門家集団?がサポートチームとなって記録達成に向けて全力で支援する。このあたり、最初から最後まで1人で歩いていたら、周囲との相互作用が描かれないことになるので、こういう物語にはならない。

それらを楽しく読んだ上で、ちょっとはみ出すとすると、ロングトレイルは来る者を拒まないので、最速踏破記録をめざすことも一興だと思う。だからといって(そのような誤解はないと思うが)トレイルは競技のためのトラックだと思われても困る。そのあたりは、むしろ読む側の課題なのかもしれない。同じトレイルを歩いても、以前にこのブログでも紹介した加藤則芳『メインの森をめざして―アパラチアン・トレイル3500キロを歩く』とはだいぶ趣が違う。どちらがいいとか悪いとかではないが。




 
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