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前北かおる句集「ラフマニノフ」を読む(2) [俳句]

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さて後半は,音楽に造詣の深い作者らしい,作曲家の名前をあげた句について考えてみたい。
(とびらにはラフマニノフの手の写真を使われている。ピアノがお好きなのだろうか)

凍星やショスタコーヴィチ聴いてきし

季題「凍星」で冬。
ショスタコーヴィチに凍星が「つきすぎ」と感じるのは音楽好きな人であろうか。華々しいデビューを飾ったあと,「ムツェンスク郡のマクベス夫人」でスターリンに睨まれて死ぬほどの恐怖を味わい(いゃ実際,比喩でもなんでもなくて,消されてしまった音楽家がいっぱいいるわけで),「交響曲第5番」でようやく命をつないだこと,戦後もさまざまな攻撃にさらされて「森の歌」やら何やらを発表せざるを得なかったことなど,苦渋の連続だったショスタコーヴィチの生涯を考えると,「凍星」という季題は,つきすぎなのだけどこれしかない季題なのである。実際に「凍星」からは,ソヴィエト連邦で,凍星の下で流刑の憂き目にあった芸術家をリアルに思い出すわけだし。

余談だが,ショスタコーヴィチにまつわるこれら一連のエピソード(プラウダ批判とかジダーノフ批判とか)は,芸術が何かに貢献していないとか体現していないといって非難することの愚劣さを証明してあまりあるのだが,21世紀の今になってもこのあたりがわかっていない方が多いのはどうしたことであろうか。


夕涼の雲より淡くドビュッシー

季題「夕涼」で夏。
この句はすっと心に入ってくる。もう少し具体的に説明すれば,以下の2点ですぐれた句だと思う。
第1に,少しでもドビュッシーを知る者なら,その程度にかかわらず(←これ重要)耳になじんでいる特徴的な和音を言葉で表現するとして,この措辞は自分の言語力では絶対できないと思うこと。
第2に,ドビュッシーが東洋美術や印象派に触発されて色彩感や光の描写に関心を抱いていたことがこの句の下敷きにはあるのだけど,それを理屈や知識じゃなしに言い得ていること。
夏の夕涼の雲ってどのくらい淡いのか,あるいは春の暮や秋の暮の雲より淡いのか(=季題が動くか)というあたりは,読み手である自分としてつめきっていないが,感覚で理解してもよいであろう。


惜春の心ラフマニノフの歌

季題「春惜む」で春。
自句自解では「ラフマニノフのメロディーに,過ぎ去ろうとする青春時代を重ねた感傷的な俳句」ということなのだが,さてどうであろうか。

ここでいうラフマニノフの「歌」とは,文字通りラフマニノフの「歌曲」なのか?それとも,ラフマニノフのメロディー特有の「歌ごころ」のようなものであろうか?
前者なら話は簡単(でもないが)で,おそらく「ヴォカリーズ」あたりを連想しておけばよいのだろう。
後者の場合,ラフマニノフの歌心って何?ということになるのだけど,
 ①ラフマニノフを聴いたことがない
 ②ラフマニノフを多少知っている(それこそ「ヴォカリーズ」とかピアノ協奏曲2番とか)
 ③ラフマニノフが大好き(あるいは,ラフマニノフ演奏やラフマニノフ研究を職業にしている)
という3種類の読み手を仮定した場合(①が人口の50%,②が40%,③が10%としようか),①や③のひとびとにはこの句はすっと入ってこない。何も知らない①は当然として,③だって「ラフマニノフってもいろいろあるわけで,ラフマニノフの何がどう歌ごころなの?」と言い出すわけだ。

で,②なら「ラフマニノフって,メランコリックなメロディーがいいよね」ということになるので概ね意味が通じるのだけど,しかしそれでは,ラフマニノフのメロディーがもつ最大公約数的なイメージというか情緒を前提として1句,ということになりはしないかと。考えすぎであろうか。
生涯に1作しか遺さなかった作曲家であればともかく,幅広いジャンルで多くの作品を遺したラフマニノフを俳句にとりあげるなら,ただ「ラフマニノフ」といい置いてあとは読み手が理解してね,ではなく,もう少し具体的にラフマニノフの何かを指示すれば面白かったのではないかと思う。

傍論として,読み手がこのように考えはじめると,その関心つまり句の中心が季題(この場合は「春惜む」)から外れていってしまい,そのこと自体が感興をそぐという問題もある。


こうした点にかかわらず、この句集は読み手のゆたかな世界―ここでゆたかな世界とは、心のレンズを透過しても季題や事物が著しく変形したりせず,すなおな姿かたちを保っていることをいう―を感じさせ,読んでいて飽きない。自分が句集を出す機会があれば,ぜひお手本にしたいところである。

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コメント 6

和声

面白いですね。かおるさんの句も良く分かってイメージが拡がりますが、やぶさんの読み込みも面白いです。
特にラフマニノフの②という表現は、句を鑑賞する時かなりの場合当てはまってしまうと思いました。
作曲家に限らず人の知識や理解には個人差があって、作り手も読み手もそれをある程度は分かっている筈です。ですから①の人にとっては判らない句になってしまう可能性が大ですが、かおるさんは判る人に判ってもらえば良いと割り切ってお作りになっていると思います。ドビュッシーの句などはとても素直で良いと思いますが、それでもピンと来ない人も多い筈で、逆にそれが面白いとも言えるかもしれません。
私はラフマニノフのピアノ曲が好きですが、その中で歌と感じられる部分が惜春という言葉と良く合うと思います。確かに感傷的ですね。
by 和声 (2011-06-10 10:13) 

前北かおる

 ありがとうございます。
 「ドビュッシー」は、ベランダに出ていたらこのままのフレーズですらっとできました。自作でありながら、どうしてこんな句ができたのかよくわかりません。さずかりものの一句です。
 「ラフマニノフ」の句は、「ヴォカリーズ」を聴いていてできました。こちらは何日かかけて作りました。最初はもう少し具体性のある句形だったのですが、イメージ、雰囲気だけを伝えるように色々とそぎ落としました。わかるようなわからないような、でも気になるという句になっていれば成功です。「歌」は、「メロディー」というくらいの意味で使いました。
by 前北かおる (2011-06-10 23:14) 

やぶ

和声さん,ごぶさたしています&コメントありがとうございます。
音楽好きの和声さんからコメントをいただけるのは嬉しいです。

かくいう私も,ラフマニノフのメランコリックな歌ごころのようなものが好きです(ラフマニノフ自身,実際にかなり抑鬱的な性格だったと聞いたことがありますが)。
また句会で音楽談義ができる日を楽しみにしております。
 
by やぶ (2011-06-12 07:38) 

やぶ

かおるさん,おはようございます&コメントありがとうございます。

ラフマニノフの句,やはり「ヴォカリーズ」だったのですね。
あのメロディーは人の声で聞くのもいいし,ピアノでもチェロでもいいという不思議なところがあって,私も好きです。
ですので,イメージと雰囲気だけを伝えて「わかるようなわからないような,でも気になる」という点では作者の意図は達成されているといっていいのではないでしょうか。

なかなかお目にかかる機会がありませんが,また俳小屋へもおいでください。
by やぶ (2011-06-12 07:43) 

GO!LEAFS!GO!

精緻な句評面白かったです。やはり、やぶさんは厳密です。
句評を文字に興した見て気がついたことですが、長い句評を有する句は理屈に落ちているんじゃないかな、とも思う昨今です。

私のブログの記事にこちらの記事のリンクを貼らせて頂きました。

あと、昨日山岡さんとお会いしましたが、3人で仙川に来るようにとのこと。
(N本君は我々との同道を遠慮したそうです)

by GO!LEAFS!GO! (2011-06-13 06:30) 

やぶ

GO! LEAFS! GO!さん,こんばんは&コメントありがとうございます。

別に精緻でも何でもないですが,それだけいろいろな角度から眺めることができて面白いわけですね。理屈に落ちる句ってのは,もっと頭で俳句を作ろうとすると出てくるわけですが,そういう感じは受けなかったですよ。

仙川いいですね。3人でお邪魔しましょう。7月のどこかでスケジュールを調整してください。


by やぶ (2011-06-13 22:30) 

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