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番町句会(5/8) [俳句]

きょうの席題は「五月」と「蕗」。
会場に着いたのが締切の3分前。どうするか。自宅の近所に蕗が自生している場所はないので、食卓にのぼる蕗を詠むか、記憶のなかの蕗の風景を詠むしかないのだが、そんな時こそ力量の差(弱点というべきか)がもろに出るという話。

(選句用紙から)

蕗原の広さや機関区もありき

選句用紙が回ってきてびっくり。自分とほぼ同じ風景(蕗の原かつて駅舎のありし場所)を詠んでいる。
しかしこの2句の差は明らか。師匠の句と自分の句を比較するのもおこがましいのだけど、自分の「蕗の原」の句は、それを説明している詠み手の存在が消し切れていない(=読者から詠み手の姿が見えてしまい、詠み手の説明を押し付けられた形になっている)のに対して、師匠の「蕗原の」の句では、詠み手はいわばレンズになりきって、表に出てこない。
ふだんから「説明に陥らない」ことを意識していても、とっさの場合に弱点が出るのですね。反省。

シャツ腰に巻いて五月の風の中

爽快な、そしてある時代を切り取った句でもある。その方面にうといのだけれど、シャツを腰に(腹に?)巻くのがやたらと流行った時期がありましたね。ちょうど自分が、ダンガリーだとかシャンブレーだとかオックスフォードだとか、シャツの生地について少しずつ覚えていった時代とも重なっているのだけど。そしてこのところ、そのブームが再燃しているような気がする。

(句帳から)

蕗の原かつて駅舎のありし場所
ワイシャツに腕を通して薄暑かな
夏めくや使ひ古しの革鞄