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第110回深夜句会(7/13) [俳句]

(選句用紙から)

重さうな車掌の鞄朝曇

季題「朝曇」で夏。通学の鞄とか通勤の鞄って色も形も大きさもさまざまだが、しかし中に何を入れるかは、持ち運ぶ人に委ねられているのが普通だろう。しかし車掌の鞄は、あれは業務上必要なもの(マニュアルとか、非常時の装備品とか)が必要な範囲で詰め込まれているはずで、まさかあの中に文庫本とかペットボトルは入ってはいないだろう。乗務している限りそれを携帯しなければならないというのは、お仕事とはいえ、この夏の暑さのなかではたいへんなことで、それが「朝曇」という季題をよく言い表している。

感想戦で「重そうな」について質疑。「重さうな」だと外から車掌の鞄に視線が注がれていて、視線を注いでいる作者がやや前景化するのだけど、むしろ「重からん」として車掌の側から鞄を見るようにさせたらどうだろうかと。なるほど。私は「重たげに」を思いついた。

かたつぶり塵もろともに掃かれけり

季題「かたつむり」で夏。庭とか路地のようなところであろうか。竹箒で掃き掃除をしていたら、葉っぱとか小石とかに混じって、そこにいたかたつむりも根こそぎ掃き出してしまった。
これも感想戦で、「もろともに」について質疑。「もろともに」だと、掃き出している竹箒の動作が強調されてかたつむりが一句の中心にこないのに対して、「塵にまじりて」なら、掃き出されたもろもろのものごとの中に入り混じっているかたつむりの様子がよりよく描けるのではないかと。確かに「もろともに」は非常に強い言葉なので、一網打尽で大きな動きとして強調されることになるから、かたつむりへの視線を保つためには、一見地味に見える「塵にまじりて」が支持されるかもしれない。

こういう議論が交わせるためには、参加者の言語感覚がある一定以上に研ぎ澄まされていなければいけないわけで、たとえ自分はその最後尾にいるとしても、この句会はありがたい存在。

(句帳から)

大西日横断歩道てらてらと

 

ハーゲン弦楽四重奏団演奏会(6/30) [音楽]

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ハイドン/弦楽四重奏曲 第78番 変ロ長調 Op.76-4「日の出」
ベートーヴェン/弦楽四重奏曲第11番「セリオーソ」 Op.95
シューベルト/弦楽四重奏曲第13番「ロザムンデ」D.804

新装開店の武蔵野市民文化会館小ホールは、座席の幅も少し広くなったような気がして快適(気のせい?)。
前から2列目のど真ん中なので、演奏者が息を吸い込む音まで聞こえる。

ざっと見渡して、藪柑子より若いお客さんは5%、多く見積もってもせいぜい10%ぐらいしかいない。ハーゲンSQといえば弦楽四重奏の世界ではまず指折り数えられる存在だと思うし、弦楽器を弾く(あるいは、弦楽器を弾いて室内楽を楽しむ)若い人は東京にあまたいると思うのだけど、こんなものなのだろうか。

このぐらいのトッププロにとって、縦の線が合っているなどということはもう当り前なのだろうけど、それにしてもどうしてこれほどちゃんと合っているのかと。その一方で、エマーソンSQを聴いたときには、全体が一つの楽器のように聞こえたのだけど、このカルテットは、目を閉じて聴くと弦楽合奏、それも大規模な弦楽合奏のように聞こえるのですね。これは、最弱音から最大音までの幅の大きさと、あとは楽器の鳴り方によるものだと思うのだけど、控えめに意ってもなかなかできない経験。

ハイドンもベートーヴェンもよかったのだけど、演出控えめの「ロザムンデ」がすばらしい。こういう曲だと、分析とか解釈とか考える必要がないので、演奏者の音楽性がストレートに伝わってきて、しみじみと幸福感に浸れる。

アンコール:ベートーヴェン/弦楽四重奏曲第16番Op.135~第1楽章

(2017.6.30 武蔵野市民文化会館)

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OS復活 [雑感]

日本路線から去年撤退したOS(オーストリア航空)が、来年5月からウィーン・成田間で運航を再開するとのこと。
去年の撤退劇の衝撃はまだ記憶に新しいし、各社の相対的な日本離れの構図自体は変わっていないのだろうが、そうした中にあってこれはささやかな朗報。

 

第109回深夜句会(6/22) [俳句]

深夜句会では、披講の前に参加者が自分の選句から一句評をするのだけど、それを聞いていると、その人が一句のどこを見ているかの視点に気づかされ、勉強になる。披講のあとの感想戦(?)もそれと同じで、ここはAでなくBのような表現がとれなかったか、Bを採ると一句として何がどう違ってくるか、といったことを俳人同士が話し合う機会ってあまりないので、たいへん貴重な機会。

(選句用紙から)

駅の端のカフェの端にて麦酒酌む

季題「麦酒」で夏。駅の「は」の、と読んでしまいそうだが、カフェの「はし」にて、と読むからには、駅の「はし」の、と字余りにするのだろう。大きな駅のはじっこにカフェがあって、そのまた端のほうの席に座って、おそらく一人で麦酒を飲んでいるという図。「駅の端のカフェ」って何だといわれそうだけど、欧州の大きなターミナル駅なんかで、あまり使われていないような場所にカフェがあるのはよく見かける風景。改札がないので、列車を利用する人だけでなく、そのへんを歩いている人がふらっと入ってコーヒーをぱっと飲んで出て行ったりするのだけど、外国出張かなにかでそんな店に入って、知り合いがいるわけもないので、端の席にぽつんと一人で飲んでいる感じはよく伝わる。
感想戦で、ここは「酌む」とすると一人なのか二人以上なのかぼやけてしまうので、「飲む」でいいんじゃないかと。なるほどそう思う。

緑蔭の道のいづこへ続くなる

季題「緑蔭」で夏。木下闇なんていうことばもあるが、木かげの薄くらがりに、踏みあとのような道がある(どのような道であるか明示されていないが、立派な舗装道路なら「どこへ続いているのか」という疑問も生じようがないので、立派な道ではないものとして読んだ)。続くともなく木かげを続いていくその道は、さてどこまで続いているのだろうか。公園の端までか、森を抜けて隣の村までか…「いづこへ続く」に詩情があるのだけど、下五を「かな」とせず、「なる<なり」(=○○であることよ)として、「いづこへ続く」にかぶせて終わらせるところが見事。
(?いま思いついたのだが、この「なる」は、「小諸なる古城のほとり」の「なる」と同様、存在の判断をあらわす「なる」で、「道」を修飾しているようにも読める。どちらなのだろう。)

(句帳から)

内側がひどく汚れて夏帽子
うすみどり色のジャケット着て素足